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季節の存在する理由

編集部より:ライターの松本友也さんに、香りと季節、そして記憶の関係についての思索的なエッセイを寄せていただきました。季節の移り変わりが感じられるいま、身体をあたたかくしながら、じっくり読んでみてください。

においについて考えることの多い1年だった。年始に観た映画『パラサイト』に触発されるようにして書いた「港とにおいをめぐる6章 港区の香を聞く」(『ARTEFACT 03』)というテキストは、このマガジンを運営する香雅堂さんとのご縁が生まれるきっかけにもなった。この短文はボードレールの「港」という散文詩と、当時話題になっていた東京湾の異臭問題とを足がかりに、香りと港湾の関係を想像力の観点から紐解いていくというもので、香りを「聞く」香道の文化にヒントをもらって書いた記憶がある。

しかしそれ以上に、一生活者としてお香にふれる機会の多かった1年でもあった。ヘビーユーザーというわけでもないが、体験香席に参加して以来、自室でもたまにお香を焚く。またここ2年ほどとにかく法事が多く、線香の香りで家が満たされることも多々あった。

愛用者とまでは言えないものの、お香は自分にとって少し特別な道具だ。お香を嗅いだときにしか得られない、何かが思い出されるような宙づりの感覚。具体的な何かということでもなく、あえて言うなら何かを「忘れていた」という気付きそれ自体が、香りに促されてふっと意識のなかに浮かび上がる。「何かを忘れているかもしれない」という、ちりちりとした焦りやいらだちが収まっていく。

少し抽象的に感じられるかもしれないが、自分としては四季の移り変わりに対して感じるものにも似ていて、あくまでも具体的な感覚の話だと思っている。夏が過ぎ、空気がひんやりとし始めるとき、あるいは朝の寒さが厳しくなるとき、その寒さが和らいでいくとき、そこでは単純に気温が変わっているのではなく、明らかに空気のにおいも切り替わっている。そのにおいは、季節のもつ雰囲気、テンション、気分を思い出させる。それは具体的な出来事の記憶、思い出でもありつつ、またそれらの堆積により生まれた思い出の「感じ」でもある(プルーストの「マドレーヌ効果」だったり、そのプルーストの作品からジュネットが見出した「括復法」だったり、これと似たようなニュアンスの概念はいろいろあるように思う)。

Google ストリートビューを使って、あてもなくいろんな街を散策するのが好きで、そのときにも似たようなことを感じる。楽しみ方のひとつとして、映っている風景の時期を当てるという遊びがある。おそらくもっとも大事な情報である「気温」の情報が抜けているにもかかわらず、雲の感じ、空の高さ、日光の加減、木々の色味などの視覚情報だけで春夏秋冬ぐらいは不思議と判断できてしまう(ちなみに画面右下に小さく表示される撮影年月を見れば答え合わせができる)。

視覚情報しかないからこそ、においや温度、つまり空気の質感の欠如がありありと浮かび上がり、季節にとっていかにそれらが本質的な要素なのかということが見えてくる。Googleストリートビューでは、季節を嗅ぎたいという欲求は満たされない。季節を忘れていたこと自体を思い出す、その実感を得るためには、やはりにおいという形で季節が現前しなくてはいけないのかもしれない。

忘却や想起にやたらとこだわるのは、おそらく自分が忘れっぽいからだと思う。憶えておきたい気持ちはすごく強いのに、どんどん忘れてしまう。「どうせ忘れてしまう」と思うと、憶える気もなくなってしまう。憶えておけないものは、そもそも存在しないのと同じ。iCloudメモやGooleカレンダー、Dropboxなどのクラウド外部記憶装置に思いつきや情報や履歴のすべてを預けたとしても、そもそも憶えるための十分な言語化やイメージ化にすら至らないぼんやりした気分や思考の断片たちはただ脳内を通り過ぎていくばかり。

そんな記憶への諦めを抱えている人間にとって、四季というものはまさに、忘れていたことさえも忘れているような感覚が、またもう一度戻ってくるという得がたい経験を与えてくれる。憶えておけなかったものも永遠に失われたわけではなく、また再び回帰してくるかもしれない。周期という仕方で存在し続けているのかもしれない。そんな風に思うことで、記憶への強迫観念から少し解放され、忘れることを自分に許せるような気がする。

高校生のころによく聴いていたモダーン今夜というバンドの変わったアルバム名「天気の存在する理由」をもじって言えば、安心を与えてくれることこそが自分にとっての「季節の存在する理由」なのだと思う。

人類学者のティム・インゴルドは、そうした大気と気分の関係を、限りなく駄洒落のような雰囲気をもった語源学的なアプローチによって捉え直している。彼によれば、temper(気質)という単語は、「混ぜ合わせること」という意味のtemperareというラテン語を起源としている。そこから派生して、temperature(温度)やtemperate(温暖な)という天候にまつわる語群が生まれ、またtemper(気分)やtemperament(気質)といった人の雰囲気や気質に関わる語彙も生じてきた(ちなみに「テンパる」の語源はtemperではなく麻雀のテンパイが由来らしい)。

動詞としてのtemperには「混ぜ合わせる」という意味に加えて、チョコレートのテンパリング(温度調整)などと同じ、「微調整する/調律する」といった意味もあるという。この単語の二重性にこそ、天候の本質があらわれているとインゴルドは評価する。

天候の経験は、空気という媒体とその中で生活する感情的な生物を一つにまとめ上げる。要するに、空気という媒体の中に浸されているので、わたしたちはハイブリッドではなく節度ある(temperate)(そして気まぐれな〔temperamental〕)存在なのである。──ティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ 線の生態人類学』(筧菜奈子・島村幸忠・宇佐美達朗訳)、p.142

われわれ人間の気質が動的でありながらも一定の秩序を保っているのは、空気という共通の媒体に包み込まれ、その媒体が自らを混ぜ合わせる動きに連動してしまっているからだという。インゴルドはさらにその着想をatmosphere(「大気=雰囲気」)という語の二重性にも見出し、発展させていく。このあたりは、「空気」は「読む」ものであると捉える日本語圏の人間にとってはむしろわかりやすいのかもしれない。

そんな風に大気のあり方を読み替えていくと、われわれが日常的に行っている呼吸という行為の位置づけも変容していく。インゴルドによれば、われわれの生活する世界が単なる「惑星の大地」ではなく、「大地と空が混ぜこぜになる地面の上、あるいは中」であるのなら、呼吸はまさにそのような居住環境のなかで、個体が自分自身と環境とを混ぜ合わせる(tempering)ためにする行為なのだという。

呼吸が、人間の内側と外側のクロスする特権的なポイントだということ。またそのクロスの仕方として重要なのが、呼吸とは「与えるよりも前に受け取る」行為であり、その順序をひっくり返すことはできないということだ。

人は行為する前に、行為するための媒体を受け取っているし、受け取ったところからしか行為を始められない。逆に受け取るものを見失っているとき、世界の側の空気抵抗を感じられないとき、行為はむなしく空振るのかもしれない。

外界としての大気、われわれの内側の気質、そしてそれらをつなぐ接点としての呼吸。「季節の存在する理由」が、忘れっぽさという内的な気質を、外的なものとしての季節=大気が包み込んで許容することだったとしたら、そのときの契機もやはりにおい=呼吸にあった。

そう整理してみるとき、たとえばお香を、吸い込むための対象を立ち上らせ、空気の存在を思い出させ、呼吸を促し続けるものとして捉え直すことも可能なように思える。ミストを散布するアロマ等と比較したときに、その異質さは際立ってくる。

ルームフレグランスやピローミストは、気分を変えたいとき、自分に何かを与えたいときに使う。そこに生じているのは、自分が自分に何かを与えるということであり、あくまでも自分のなかで完結した行為だ。

対してお香は、いわば自分の外側にあるものを煙として漂わせ、それを吸い込んでみることに主眼がある、と言ってみることもできるのではないか。その香りは、自分に作用するための「成分」ではない。自分という個人の外側にある、香道や香りの文化のなかで継承されてきた香りであって、その由来は自分とは直接関係がない。

香道には「組香」という香りを聞き分ける遊びがあるくらいで、そもそも香りを正確に記憶し、嗅ぎ分けるのは至難の業だ。重要なのは、そうであるにもかかわらず、なぜか自分にとって懐かしい、既知の印象があるということなのではないだろうか。単体の香りとしてはとても複雑で、日常のなかではまず嗅ぐことのないにおいであるにも関わらず。

それが、お香を焚いたときにいつも感じる、忘れていたこと自体を思い出すような感覚の由来なのではないかと思う。お香を焚くとき、個人的には気分を変えたいと思っているわけではない。むしろさまざまなものに取り囲まれ、気分が次々に移り変わってしまうのを抑えたくて、お香を焚く。自分に何かを与えるのではなく、自分の外にある記憶の場所に戻っていくための措置として、お香はある。

この時勢で、とにかく家にいる時間が増えた。自室で作業に集中したいときには、オイルストーンに精油を垂らして気持ちを切り替えることが多い。そして自室が自室でしかないことに息が詰まってしまうときには、お香を焚く。外から来た香りに不意打ちされ、呼吸することを思い出す。空気はふたたび循環し始める。

【プロフィール】松本友也
1992年生まれ。都市文化批評「Rhetorica」編集/ライティング。直近のリリース・活動は、『ARTEFACT』(慶應アートセンター)シリーズ、インターネットラジオ「ポコラヂ」、Web連載「K-POPから生まれる『物語』」(CINRA.NET)など。

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編集協力:OKOPEOPLE編集部

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