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(性的)モノ化とはなにか?と相互理解のために

 表現規制関連の話にて、性的な描写が問題となるたびに、度々出てくることがある言葉の一つに「性的モノ化」という言葉が挙げられる。
 女性を性的モノ化することによって、女性の尊厳を傷つけている、女性にこうあってほしいと言うメッセージを送っているといった内容が主立ってみられ流主張内容ではあるが、これに反対する人々との間で幾度となく論駁を繰り返しては、同じところを何度も堂々巡りしているのである。
 お互いに主張しあっても、とてもわかり合っているような状況ではなく、語り合ってもお互いに日本語が通じていても会話が出来ていないかのような状況だ。当事者としてはお互いに、相手の主張にしっかりと反論して論点がずれていないかのような感覚を抱いているはずなのだが、奇妙なまでにかみ合った感覚がしない。
 このなんとも言えない不思議な感覚がありつつも、お互いがわかり合っているようでわかり合っていないこの奇妙な現象には、大元の部分で価値が異なっていることが理由の一つになっているのではないかと考えられる。

1 定義に関して

 お互いの認識のずれに関する話をする前に性的モノ化の定義に関して紹介していきたいと思う。性的モノ化に関しては、日本で性的モノ化の論文を掲載している江口聡氏のものから引用させてもらうと


女性の性的身体や性的機能がそのひとの人格全体から切り離され、単なる道具に還元されてしまう、あるいは、そのひとを代表するものとして扱われてしまうことを指す

性的モノ化と性の倫理学

より

 となっている。この言葉自体は1970年代のアメリカでキャサリンマッキノンやアンドレアドウォーキンと言ったフェミニストやその支配下にある心理学関係の学者が主張してきたことである。

 従来は、ミスコンやポルノといったものを対象として女性のセクシャリティーな部分を商品化することによって、女性に対してこうあるべきではないかと言うことを助長しているものであり、女性の自立性や人権などを侵害しているという形で論じられてきた。この論点は、第二はフェミニズムを支える中心論点として支えられており、現代でもリベラルフェミニズムとの対立している論点の一つとなっている。

 その後、複数の経緯を得ながらヌスバウムという方が、性的モノ化に関して更なる定義を構築しているのであるが、定義としては以下のようなものである。(先ほどの論文から引用する)

1.道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
2 .自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
3 .不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
4 .代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
5 .毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundaryintegrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
6 .所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
7 .主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。


更にここから発展して、追加の定義も展開されており、


(8)女性をその身体やルックスに還元してしまう
(9)エロチックな写真などでは、女性は体全体を鑑賞されるだけではなく、胸や腰や脚などの特に性的な部分・パーツに分けられ、その部分だけを鑑賞される。

 と言うような定義が付け加えられている。

より

 しかし、これらの定義を見たとしても、モノ化とはどういけないことなのだろうか?と言うことがなかなか見えてこない。

2 モノ化の根幹となる部分


 モノ化に関して何が悪いのかという理解を進めるためには、モノ化という論理が成立する過程を知る必要があるだろう。モノ化は何がいけないのか?その論理を紐解くには、性的な部分から離れて、差別についてちょっと基本的な部分に戻る必要がある。

(1)侮蔑のために「モノ」として表現する。

 思い起こしてみて欲しいのだが、我々は差別に限らず他人を卑下したり罵倒したりする場合、バカだとかアホのようなそもそも馬鹿にするような意味の言葉を使ったりすることもあれば、何か人間とは違った動物や植物、モノといった言葉を用いることによって、罵倒することがあるだろう。

 例えば、太っている人に対してブタだとか言葉を用い、誰かの都合の良いいいなりになっている人物に対して、○○の犬というような感じで他人を侮蔑するようなことがあるだろう。

 もちろん、本当に人間をモノだとか動物だとかというわけではない。比喩ではあるのだが、我々は他人をけなすときに、人間とは違ったものであるという見方をすることによって、相手の尊厳をけなすことがあるのだ。

 人と同じではないモノだからこそ、人のように扱うこともしなくてもいい。何か人とは違ったモノだからこそ、人には出来ないような残忍な振る舞いをすることが出来る。そういった感情的な動きや発想があるからこそ、今までの歴史の中でも様々な差別や制度に繋がってきたのではないか。


 奴隷や植民地に住んでいる人々の扱いのようなまさに所有物というようなレベルから、いじめのような状況、アパルトヘイト、強制収容施設、エタ・非人etc 人権という概念が未発達の時代ではまさに彼らはモノのように扱われたのではないか?

 いじめが身近な例でわかりやすいだろうが、最初の内はまさに「モノ」という様な形で、様々な侮蔑くらいから始まったかもしれない。だが、そこからエスカレートして、ものを隠したり盗んだりするようなこともあれば、暴力や恐喝、とだんだんとエスカレートする。そういった物事の端緒になりうるのである。

 人間を人間として見なさないような表現や言葉というのは、より大きな差別に繋がっていくのではないか?人としての扱いをしないことによって、より大きな差別が生まれる。そういった経緯があるからこそ、事前に差別に繋がるような表現自体を防止し、緩和することや、一般的に評価を受けない属性や表現をとりいれることによって、差別を防止しようという発想が出てくるのである。

 表現そのものが最初から属性全体に及ぶことを前提としている事によって、表現そのものを問題とするのである。(それは明示的であっても黙示であっても問わない。)その考えを性的な場面で応用した形になっているのが、性的モノ化論の根幹なのである。彼女たちの感覚では、ヘイトスピーチやヘイトクライムといったような特定属性に対して向けられた悪意や憎悪と同じ感覚なのだ。

(2)ルッキズムと女性の在り方

 性的モノ化論の影響が一番に来るのは、女性のルッキズム的な側面であろう。最初にミスコンのようなものを取り上げたが、ミスコンは女性の美しさに関して、画一的な見方をしているものであり、女性の容姿やプロポーションが素晴らしい人物というような、女性としての在り方はこうでなくてはならないというメッセージを与えていると言えるだろう。というのが、規制する側の見方である。
 ミスコンでわかりにくければ、一般に市販されている美容雑誌や女性誌なんてのを浮かべると良いかもしれない。そのときの流行はあるだろうけど、こういった「型」にはまるようにするとよく見えるとか、モテるとか、美しいだとか。女性がより女性としてよく見えるために、一定の方向性に誘導している内容が色々書かれているだろう。

 もちろん、私個人としては「美」と言っても様々な形態があり、その中でも多様性があるようにも思ってはいるが、性的モノ化論は女性としてあるべき「型」があり、そうでないモノに対する劣等感の植え付けや、そうであらねばならないとする他人に対する意思への干渉を産むと考える。

 その干渉が、女性が自分がどんな感じの衣装や容姿などでいたいかという意思形成に影響を与え、本当はしたいようにしたくても、そこから逸脱する様な形を取ることによって、疎外・侮蔑などされるかもしれない。

 そして、そこには男性的な視点が存在しているものであり、その存在こそが家父長制的、男尊女卑的な価値観が存在しているとあちらは考えているのである。

 だからこそ、他人に影響を与えるような一定の表現を規制したいのだと考えられるのである。その動きは、ポリコレに見られるようなものであり、一定の美的基準から離れた表現が取り入れられようになったのも、性的モノ化論の影響もあると言えないだろうか。


3 表現の自由、創作、キャラ設定という観点からは理解し難い


 とりあえず、性的モノ化論がどういった前提に存在しているかは説明させてもらったが、今度は表現の自由側から彼女たちの意見がどのように見えるかを軽く書くこととしよう。

(1)前提が違うから、そもそも話がかみ合わない。

 

 表現の自由を擁護する側と、表現規制側との前提となる認識とはそもそも最初から異なるのである。モノとして扱っているという批判をする側は、通常の差別批判のような特定属性に対して全体的にイメージを植え付けるようなことや、悪意をぶつけるような事と同じような前提になっている。

 しかし、その前提を知らない者からすれば、そもそもそのようなメッセージは見えないしわからない。

 フェミニストに対してやり玉に挙がっている表現というのは、ヘイトスピーチのように明確に特定の誰かに向かってメッセージを送っているわけではない。特定のキャラクターがそこにあったとして、そのキャラクターがどんな性格、服装、容姿をしているとしても、それはあくまでそのキャラの特性でしかない。キャラが女性を相手に「ワタシのようにしろ」とか逐一いってくるわけでもないだろう(笑)

 とあるキャラデザインや格好、容姿、考え方、話し方などをしているのだから、自分自身にそのようになるべきと言うメッセージが送られてくると言うのは、風が吹けば桶屋が儲かるといわんばかりの論理飛躍にしかみえない。 

 また、ミスコンのように、明確に美を競うようなものであるのならわかるのだが(そのミスコンもポリコレの影響によって、知識だとか容姿以外のものも求められるようになったのだが)、単に広告などに萌えキャラなどを起用したからといって、女性にこうあるべきだと即座に断定するのは無理がある。

 その他にも、創作物のキャラクターといったものはフィクションであり、現実と区別していることが大前提であることは、多くの人達が既に何度も指摘していることではある。フィクションだからこそ現実ではあり得ないことや、やってはいけないことも表現するわけだが、あくまで想像や空想の中で楽しむものだ。最初から現実でこうあるべき論という面には結びつかないか、そうなりにくい面があるわけで、「モノ化」のような現実に及ぼすようなメッセージ性という発想そのものがでにくい。

 モノといってもただの例えや比喩表現というものもあることから、モノというだけでは差別の意図はやはりわからない。


(2)表現に影響を受けると言っても・・・。


 もちろん、創作物に関して、内容によっては感銘を受けることや不快感を示すものなど、様々な感情を受け、中には作者が読者に伝えたいことも内容に含まれることもある。
 作品を見ることによって、人間の考えや感情に何らかの影響があるのなら、やはり表現そのものも悪ではないだろうか?まだ諦めない人もいるだろう。
 現実にだって、お笑い芸人がやっているようなことをマネすることで他人を傷つけるようなことがあるだろう。また、とある作品のアイディアから現実の犯行の手口に利用した事例だってあるわけだし、影響が全くないだなんてあり得ないのでは?とも考えるだろう。
 しかし、それらの表現に何らかの影響を受けたからと言って、じゃあ差別をするだろうというわけでもない。科学的にも、強力効果論のようなものは既に否定されており、そもそも因果性を結びつけることは非常に困難である。(解説自体は別の方に譲る)

 また、表現には人に対する影響があるのだからと言っても、通常は表現物の影響を受けて何らかの犯行なり悪いことをすれば、その人自身が悪いというのが基本的なオチである。

 当人がしっかりとものの善悪を把握することは当たり前のことであり、表現があるからと言ってそれをやって良いことくらいはわかるのが当然なのだから。また、善悪の区別がつかない子供であっても、親が教育をして区別をつけられるようにすれば良いのであって、表現のせいにしないで区別の訓練をすることが当たり前なのである。

 それは刃物や車のような乗り物のように、使い方によっては危ないものでも、そうならないように扱うことを教えるのと同じものなのだ。

(3) 自他境界の区別とその無意味さ


 

 ここまで、表現の自由側が反論する内容としては、表現そのものに属性に対するメッセージ性が含まれていないか薄いと言うことや、個々人が表現に対してどう感じ、どう動くかが中心に挙げられる。

 集団的な意識変化ではなく、あくまで一人一人に焦点を当てるものである。この大きな違いが双方にあると言って良いだろう。その意見の相違が集約されている批判が、彼女たちは自他境界が曖昧なのではないかという反論である。

 せいぜい他人に向けられているか、キャラクターそのものにしか向けられているだけで、自分に対して向けられていないのにも関わらず、他人が自分に対して何か主張しているわけでもないのに、自分に向けられているように話している。

 端から見ていれば、自分と他人の区別がついていないように見えるのはおかしな話ではないだろう。

 だが、モノ化論というのは何度も書くが大前提としてヘイトスピーチのように特定の属性全体に向けられているものだから、その中の個人にたいして一人一人に向けてメッセージを向けているかどうかを問わないだろう。だからこそ、最初から自分に向けられたメッセージか、他人に向けられたメッセージがと言うようなことを問うこと自体が無意味なのだ。この点が決定的に異なるのである。


4 まとめ

 性的モノ化論において理解が及ばないのは、前提におおきな違いがはじめから存在していることが原因だろう。理解をまとめると

性的モノ化論の肯定側
・メッセージ性の存在(黙示も含んだ幅広いもの)
・表現物そのものが属性全体に向けられていること
・それによって、差別に繋がると考える

性的モノ化論の否定側
・メッセージ性の否定(あったとしても薄い)
・表現物に対してどう感じるかは、あくまで個人がどう感じるかということ
・差別性との因果関係は証明困難

 といったところだろう。最初から属性のみんなに影響を与えており、またそれをメッセージとして発しているものだという考えと、それはあり得ないというお互いに最初のスタートが違った前提から議論をしているのだから、そもそもわかり合えない。


 わからないまま話を進めるので、一見するとお互いの意見に反論し合っているように当事者同士は認識しているようにも見えるのだが、根底のところでお互いの主張が食い違っている。

 そういったところに説明が何もないままだから、より理解の妨げになっていると考えられるのである。


その他参考



残りは、感想とおまけである。

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