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私の好きな宝塚歌劇と、その「宝塚」が持つ構造の気持ち悪さについて


※正直、最初の章は読み飛ばしてもらって構わないので、後半を読んでほしいのです。

私の好きな宝塚歌劇


 宝塚歌劇を初めて観たのは2017年のことだったと思う。幼少期に宝塚OGが運営するスクールでバレエを習っていたり、母が兵庫出身であったことから宝塚という存在を認識してはいたが、そこまで思い入れのあるものではなかった。ただ、従姉妹の友人にジェンヌがいたことで、観劇の機会を得たのである。

 とは言っても、自分の意思でチケットを取り、観劇するようになったのは最近のことだ。その中で、私は確かに宝塚歌劇が好きだが、宝塚の持つ構造には合っていないのかもしれないと思うようになった。

 好きなジェンヌさんはいるし、彼女たちのパフォーマンスが本当に好きだ。でも、どちらかと言えば「良い作品を観たい」という意識が強く、どんなに出演者が好きであっても面白くない舞台は観たくない。特に受け入れてほしいと思っているわけではないが、これはスター制度の宝塚では中々受け入れられづらい考え方だろう。実際、X上での作品に対する批判めいた発言は(「批評」と言えるものであっても)ジェンヌに対する冒涜であるという理由からしばしば弾圧される。

 とにかく、そのこと以外にも看過できない点があり、自分には合わないと思うのだった。合わないなら観なければいいと言われそうだが、それでも好きなのである。

 横長のプロセニアムと銀橋を備えた豪華な舞台のつくり
 座付き作家によるジェンヌの性質を捉えた当て書きの脚本
 男役の立ち居振る舞いと娘役の凜とした演技
 パレードの最後に現れる大羽根を背負ったトップスターを見つめる組子の後ろ姿
 銀橋にやって来たスターに向けられる惜しみない拍手
 デュエットダンス中の厳かで、優しい時間
 幕が上がる瞬間、幕が下りる瞬間…

 私は宝塚歌劇が好きだから、これから先もずっと観続けたいと思うし、ずっと続いてほしいと思う。だからこそ、変わってほしいと思うことがある。

宝塚歌劇という社会


 私は宝塚歌劇の性質と「推し文化」の性質がかなり近いものだと感じている。「推し文化」とはどのようなものか。

 SNSと結びつき、商業化された「推し文化」では以下のことが重要視される。すなわち、ファンたるもの
・常に推しに関する情報を追わなくてはならない
・その情報を手にいれるのは早ければ早いほど良く
・その最新情報を得たことをSNSなどで報告するのは一種の義務である
・推しにまつわるコンテンツは基本的に肯定すべきで、推しが関わっている限りそのコンテンツは素晴らしいという意識を持つ

 そして、企業側はそのファン心理を見抜き(というか彼らがそれを構築したとも言える)コンテンツを提供する。ここでは、推しは消費の対象である。私は数年前まで某大手アイドルグループを「推し」ていたが、この消費者(私)と商品(推し)という構造に辟易してしまった。ファンは推しの動向によってその感情を大いに左右され、時には感傷的に推しに同情するが、この感情までもが消費の一環として捉えられている感覚があった。

 さておき、宝塚歌劇のファンダムはこの「推し文化」と非常に親和性が高い。そもそもSNS全盛期を迎えて「推し文化」が広く浸透する前から、宝塚歌劇という社会は似た構造を内包していたとも言える。

 まず、宝塚歌劇はスター制度である。基本的にファンは「贔屓(つまり推し)」を持ち、贔屓を観るということを第一の目的に観劇している場合がほとんである。そのため、たとえ作品の質が満足いくものでなかったとしても(これは客観的に質が悪いと言えるものに対しても、また個人的に好みでないものに対してもだ)贔屓が出ている限り批判、批評の対象ではない。

 そのスター制度、もっと言ってしまえば宝塚歌劇という一つの社会構造を支えているのが会(ファンクラブ)である。宝塚歌劇では、公式ファンクラブとして存在する「宝塚友の会」とは別に、ジェンヌごとの私設会が、非公認ではあるものの黙認されている。それら会は、各ジェンヌに割り当てられたチケットの会員への分配から、送迎を始めとするマネージャー的な業務まで様々な役割を担っている。

 一見、ファンにとってもジェンヌにとっても健全な環境なのだが、私はこの存在に非常に違和感を覚える。その違和感の理由を挙げるとすれば、

・ジェンヌ間の上下関係がファン内にも持ち込まれていること(下級生会と上級生会の間の明確な格差)
・本来は劇団側が担う業務を会のスタッフが肩代わりしていること
・チケット代とは別に会員から支払われる「お花代」等の金銭のやり取り
・閉鎖的な仕組み(明文化されていない御法度の多さ、問題を外部の者が検証できない構造)

 以上を含む問題点は、とある会のスタッフ経験者によるブログによっても明らかになった。他人任せで申し訳ないのだが、この問題を理解するには下記のブログを読むのが一番手取り早いと思う。
まじで読んでください。

希望


 ということで、私は結局何が言いたいかというと、今一度この会という存在を見直すべきだということだ。しかし、たとえ私設会が解体されて、各ジェンヌへのチケットの分配もなくなり(つまり劇団が一括管理するようになり)、劇団側がマネージャー的存在を用意するようになったとしても、それらはこれまで会が担ってきた役割を代替するものにはなり得ないだろう。

 なぜなら、会の存在が宝塚歌劇を支え、それが単なる制度を超えた一つの文化、アイデンティティになってしまっているからだ。それほどまでに会は大きな存在である。だから、何十年もファンを続けている方からすれば会はあまりにも当たり前の存在で、疑いの目を向けることはほとんど無いだろうと思う。それは当然のことで、私は何も彼らを責め立てたいわけではない。しかし、新参者の私の身からすれば、その大きな大きな存在、そして不透明な存在が非常に恐ろしい。引いてしまうのだ。

 上に挙げたような会の構造に対して他の人も同様の感覚を覚えるかは分からない。単に私の個人的な「気持ち悪い」という感情に端を欲するものとも言える。

 考えがまとまっていなくて、すみません。皆さんの意見をお聞かせください。

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