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掌編小説|大きいお城と小さいお城


「お客さん、着きましたよー」  

 タクシーの運転手に声をかけられて目を覚ますと、世界はゆっくりと朝に近づいていた。いちばん最初に指に触れたカードを取り出して、後ろめたいことはとくにないが、逃げるように支払いを済ませる。こんな未明にいったいどうしてそんなに急いでいるのかと問いたくなるような速さですれ違う車たちを横目に、交差点を二本の足でゆっくりと渡る。数時間前までの叫ぶようなフロアの残響が耳の遠くでまだ響いていた。  

 辿り着いた鉄の塊のてっぺんに登る。扉を開く。ピピ、という音だけがして、家主の帰宅とともに空調が動き出し、空気清浄機のモーターが回り出す。自宅をそっと起こす。スイッチを押し、緞帳のような重たいカーテンがゆっくりと天に昇ると、冷たいグレーの逆光に照らされた、ジオラマみたいな作り物の都会が窓いっぱいに広がった。  

 室内灯は点けずに、トイレで少しだけ胃液を吐いておく。頭が働かなくなるのでほとんど食事はしないようにしていたが、身体の中は少しでも綺麗にしておくほうが都合が良かった。口を軽くゆすいで、先刻仕入れた立派な新しい住処を箱から取り出す。この貝殻の学名などは聞いたそばから忘れてしまったが、十センチ近くあるサザエに似た立派な巻貝で、南アフリカのケープタウンで入手したものらしい。アフリカ大陸の南の端から東の端の島国まで、長旅をしたは良いが、こちらの気候はいささか不安定すぎるかもしれない。  

 コンコン、と広がる眺望の特等席の水槽のガラスを叩くと、マングローブの流木の隙間から、気だるそうに彼女が前足を持ち上げて返事をした。 
 新生児の頭ぐらいの大きさの貝殻を慎重に横たえる。丁寧に磨き上げられた外殻は、要所、真珠のように虹色に輝いていた。
 砂底のベッドは不安定に新居を抱擁している。少しぐらついているぐらいでちょうど良かった。  

 服を脱いで、足を軽く塩水ですすいでから、足の親指でしるしをつけるようにして、砂底に触れた。足先から皮膚がゆっくりとひび割れていく。薄皮が剥けてまたすぐに生まれて、高速に脱皮を疑似体験するような感覚を覚える。帰宅したての家主は数分で小さくまとまり、まだら模様の甲殻類へと姿を変えた。

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