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掌編小説|思い出はサーマルロール


 いぼ?ができた。うなじを擦ると日焼けの皮剥けみたいにぴーっと、一センチぐらいの薄皮が綺麗に剥けた。初めは小さくまとめてゴミ箱に捨てていたが、また気になって剥いてみると、決まってぴーっと、今度はもう少し広い範囲で剥けた。おおー、と思って今度はじっくり剥がしたそれを観察してみると、なにやら文字のようなものが規則正しく並んでいる。印刷したての原稿を枕に寝てしまったか?とまずは思ったが、覚えはなかった。
 スマホで肩をねじらせてうなじの写真を撮ってみる。やや赤みは目立つが、出血していたりかさぶたができているわけでもなさそうだった。痒みも痛みもなかったが、どうしても存在が気になって一日中触ってしまうので、皮膚科に行った。日光による皮膚炎か、ヴィダール苔癬というものであろうとのこと、いずれにしてもステロイドの軟膏で炎症を抑えるのが良いでしょう、と言われた。数日は軟膏を塗ってはみたが、毎日配膳のようにきちっと綺麗に皮がめくれるので、剥いたほうがすっきりするし、べたべたするので軟膏は途中でやめてしまった。だんだんコツがわかってきて、全面に糊がついたポストイットのごとく、綺麗に剥がすことができるようになった。
 文字に関しては何人か医者を廻ったが、考え得る難しい病名を挙げられはするものの、なぜ文字が剥けた皮膚に印字されているのか?(またそのように見えるのか)への言及は一切なかった(問診票に書いているのに!)。しびれを切らして三件目の医師に、「文字が書いてあるように見えませんか?」と尋ねてみた。三十代前後の若い女の先生だったが、ほんの数秒だけわたしと目が合ったかと思うと、わたしの下まつ毛の下あたりを凝視しながら淡々とこう告げた。
「あなたが今見えている、もしくは感じていらっしゃる事象については、もしかしたら医学の知識のみでは説明のつくものではないのかもしれません。ただ時に、科学的な事実として、身の回りで起こる何気ない事象に特別な意味を持たせてしまうということは、しばしばあります。今回がそれにあたるかどうかはわかりませんが、もし今回の事象について混乱しているとご自身で感じられたのなら、このお薬を少量飲んでみるのも手かもしれません」  
 政治家のような回りくどい言い方ではあったが、これまでの医師の中では最も親身になってくれたように感じたので、再診の予約をとってそそくさと診察室を出た。処方箋を受け取ると、赤い透明の、ヘアオイルの小分けパックみたいな薬を渡された。袋の説明書きに「抗精神病薬」と書いてあって、そこで初めて頭がおかしいと思われたのだと気がついた。  
 しかしまあ、何らかの意味を持った文字の配列が皮膚に浮き出てくるなど、よく考えなくてもあり得ないことではあった。
 自分なりにある程度知識はまとめてみたものの、やはりわたしには、メラノサイトが排泄した色素の無意味な集合体ではなく、何らかの意思を持って編み出された記号的な配列に感じられるのだった。

 ふと思い立ち、薬局でピーリング剤を購入してみた。足の角質パックを試した時のことを思い出したのだ。靴下状のビニール袋に薬液が入っていて、数時間つけておくと皮膚のターンオーバーが促進され、一週間ぐらいで足の皮が脱皮の如くズルズルと剥けるという商品だ。摩擦の多い箇所は粉を吹くように汚く剥けてしまうので一か八かではあったが、より広範囲なまとまった脱皮を期待し、うなじから背中にかけて、鏡を見ながら薬液を塗り広げてみた。ラップで丁寧に密閉して、一時間ほど放置。お湯で綺麗に流した後、一週間後の解放に向け期待を胸に、わたしはその晩眠った。
 昔から、思いついたことや夢の内容などが、レシートの紙みたいにぐるぐる出てくればいいのにと思っていた。今でこそスマホが常時手元にあり、イヤホンをつけたまま仕事をしていても誰にも叱られることはないが、学生時代は校則が厳しかったし、自分の頭の中だけで暇つぶしをしなければいけなかった。遅刻したので誰も話しかけてくれない登校時の坂道、テストが早く終わりすぎたが退出を許されない残りの二十分、友人の家に泊まった時の自分だけ眠れない高揚した真夜中など。わたしの頭の中は玄人のエッセイストよろしくぐるぐる文章を紡いでいるつもりでも、紡いだ側から言葉はばらばらになって、蒸発してしまうのがすごく不便だと思っていた。頭の中の独り言が欠片でもいいから形になれば、その欠片を拾い集めてわたしは何かを生み出せるのではないか?  
 文章を書くのが好きで、というかそれしかできなくて、ライターになった。課題を与えられて文章を書くのは学生時代から得意だったが、しかし文章を書くことを生業にしてもなお、わたしの頭の中は思ったようにまとまりはしなかった。いざ、小説を書こう!エッセイを書こう、いや手始めにブログを…と思い立って、パソコンの前に向かうと、頭の中はお通夜みたいに静かになってしまう。  
 なので今回の件は、少なくともわたしにとっては、それが病気であろうがなかろうが、好機なのだ。もし、わたしの無意識がわたしを乗り越えて、一生ものの一文を紡いだら?わたしは期待していた。わたしの意思に反しておしとやかな脳内と、和解する時が来たのだ。それが万が一精神病の始まりだったとして、今のわたしにとってはパッとしない毎日を切り開く、ビギナーズラックぐらいのものだろう。
 薬液を塗布してから一週間、慎重に過ごした。どこかにぶつけて破けてしまわないよう、毎日スカーフを巻いて過ごした。きっかり七日目に、ぷかぷかと水の抜けた水膨れのようになったのを鏡で確認して、ゆっくりと皮を剥ぐ。薬液は鎖骨の近くまで染みていたようで、特殊メイクのマスクを外すような手つきになった。指の腹を新しい皮膚と古い皮膚の隙間にちょっとずつ忍ばせながら数分かけて作業を終える。
 急いではがき大の大きな鱗をまっさらなコピー用紙に貼り付けて文字を解読すると、二週間前に読んだ小説の冒頭部分の切り抜きだった。  

 時刻は夜中の一時を廻っていたが、わたしは外に出かけた。うなじを掻きむしり、髪についた落屑を払った。玄関から適当に拾い上げたポシェットには、財布と、入れっぱなしだったあの赤い薬が入っている。
 誰もいない夜の住宅街を、わたしと一緒に歩いた。日差しのことをもう忘れたコンクリートの上を静かに歩く犬とすれ違った。虫たちは音もなくどこかで静かに眠っていた。  
 コンビニに着いたので、青色のマシュマロかグミを探した。「ゆめごこち」と名のついた飛行機のかたちのマシュマログミを見つけたので購入し、胴体のところで半分にちぎった。歩きながら処方薬を手に取ると、こちらは割線がついており、ぱきっと半分に割って等分とした。  
 夢から覚めるための有り難いお薬と、「ゆめごこち」をひとつずつ手に取り、ふたつのキメラをこしらえ電柱の光に透かしてみる。3Dメガネみたいな配色だ。オーダメイドの、おまじないの効いたお薬を、落とさないようにそっと舌に転がして、胃の奥まで一気に流し込んだ。

 終

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