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【小説】猫も喰わない昼下がり

 彼は猫を飼っている。
 シンプルな黒い線で表現された、五百円玉くらいしかない極小の猫だ。たいていは彼の首の付け根でとぐろを巻いている。

 骨と皮とわずかな肉で構成された彼が、今日はリビングのカーペットのないところで行き倒れていて、そのあらわになった項で猫も丸くなって寝ていた。ヴィンテージとはいいかねる、着倒してくたくたのTシャツは擦り切れた襟ぐりが伸び放題で、彼のからだはいつもそのなかで遊泳している。

 ベランダへ続く大きな窓は両端しかカーテンが引かれておらず、陽光の道が彼を照らしていた。埃がきらきら、ふわふわと舞っていて、どこか幻想的で厳かな雰囲気をかもしだす。

 死体のようだと思った。
 それから、干物だと思った。

「あほらし」

 呟いた声には感情なんてのっていなくて、私はトートバッグを手放すと彼のわきへとしゃがんだ。一瞬、眼球に午後の日差しが刺さる。

 彼へと手を伸ばそうとすると、先に猫のほうが目を覚ました。たかが黒い線でできた猫のくせに私をねめつけると、彼のいかにも薄弱といった具合に色のない皮膚の表面をのそのそと移動する。焦らすように重々しい動作で、それがまた馬鹿にされているみたいで腹が立つ。平面の猫に腹を立てたところで虚しいだけだと理解しているのに。
 猫はTシャツの奥へと姿を消した。おそらく腰のあたりでまたとぐろを巻いているのだろう。めくってやろうかと思ったが、理性がくだらなすぎると文句を言うのでやめた。

 いくら見てくれが死体だろうと干物だろうと生きているので、彼のからだは呼吸にあわせて穏やかなリズムで上下する。
 寝息は深く、安定していた。骨ばった肩をじかにフローリングにのせていて、痛くないのだろうか。

 起こそうと指先でつついた肩は、やはり骨の感触がした。
 彼を生き返らせるにはささやかな刺激だったみたいで、まったく起きる気配がない。仕方がないので今度は薄い肩を掴み揺さぶった。お洒落ではなく不精のせいで根本と毛先がツートンカラーになった頭が床にぶつかり、ゴッと鈍い音がした。
 呼吸を乱された彼が、低く唸って顔をしかめる。瞼が痙攣し、重たげにもちあがってヘーゼルの虹彩が覗いた。純日本人だが生まれつきの明るい目の色に、染色した髪が彼を彼たらしめると同時に正体をあやふやなものにしている。少なくとも私には、彼が自分と同じ人間であるようには思えない。

「なに……」
「おはよ」
「……おはよう」

 寝起き特有の掠れた声。せっかく開いた瞳は眩しいのかしょぼしょぼと今にも閉じてしまいそうだった。

 いつまでもごろりと横たわったままのからだを爪先でつつく。彼はうう、と不機嫌そうにうめき、しぶしぶといったていで起きあがった。ぽきぽきといたるところの関節が鳴る。

「なんでそんなところで寝てんの」
「……風呂、久しぶりにはいって……湯舟のほう……暑くて……」

 そのままちから尽きていたらしい。見事に寝癖がついた頭を、さらにぐしゃぐしゃにかきまわす。

「今、何時」
「二時。午後の。食事は」
「まだ」

 だと思った、とコンビニで調達したパンやおにぎりの詰まった袋を押しつける。私も彼も料理なんてできないのだ。

 骨に皮膚をはりつけただけのような指先がパンのビニールを不器用に破り、取り出したクリームパンにかじりつく。うっかり甲斐甲斐しくも野菜ジュースのパックにストローを差したものを手渡してしまう。彼は甘ったるいパンを頬張ったまま不明瞭に何か言った。読みが外れていないかぎり、礼を告げたのだと思う。
 テーブルがないので、彼は床に胡坐をかき、食べ物もじかに並べていた。彼の尻だけが、かろうじてカーペットの端に乗っている。

 物がなさすぎて生活感とは縁遠いワンルーム。例えば彼が死んだあと、この部屋から彼の趣味嗜好を察するのはさぞかし難しいだろう。私の部屋などは逆に物が多くて、きっと私のひととなりを推理するのは楽なはずだ。どうしても、一度好きになったものを手放すことができなくて、あっという間に空間が埋まっていく。

 彼がうつむき、腰のない髪がわかれて首の付け根が覗く。ちょうど、骨がぼこりと隆起したところで、猫が伸びをしていた。長い尻尾の先までぴんと伸びている。

 彼が猫を飼っていることに気がついたのは、彼の家に救援物資という名目の食糧をもって家を訪問することがすっかり板についた頃のことだった。

 初夏の青い暑さに溶かされた彼は、だらしなくも上半身を晒したまま、やはりリビングで鯵の開きよろしく転がっていた。「死んだ?」と呼びかけると、「まだ」と思いのほか芯のある声で答える。
 億劫そうに起きあがり、おおぐちを開けて欠伸をする。あばらが目で数えられるほど貧相なからだに、うっすらと汗をかいていた。この人も生きているのだと、見当違いな感動を覚える。
 彼は片膝を立て、うつむいた。そうして汗ではりつく襟足の隙間から、ちらりと覗いたのが猫だった。

 つい、指先で丸くなって眠る猫に触れる。
 彼はひくりと、わずかに震えたが、それだけだった。
 しっとりと湿った肌に眠る猫は、指のしたから迷惑そうに私を睨む。指が退くと、彼と同じくらい億劫そうに腰のほうへと移動していった。

「……タトゥー?」
「……ああ……」

 今、まさに指摘されるまで、すっかり存在を忘れていたといったようすだった。何もないきれいな項を、短い爪でひっかくように擦る。

 なんでいれたのと訊けば、若気の至りと、そのときだって十分若いくせに答えた。

 私の両親は昔気質で厳しく、髪を染めるのもピアスホールを開けるのも信じられないといった態度であったので、自分の子供の身近にタトゥーをいれる人間がいるなどと知ったら目を剥いてひっくり返るだろう。ついでに髪色は派手だし、だらしがないし、泡でも吹くかもしれない。父は重度のニコチン中毒者で、母は病的なキッチンドランカーのくせに。彼は煙草は吸わないし、酒もつきあい程度にしか飲まないのだ。

 兎も角、そんなものを飼っているから彼は大衆浴場を利用できないし、私とプールや温泉に行くこともできない。タトゥーを隠すシートがあると教えても、へえ、と言ったきりですでに忘れているに違いない。
 猫がいようがいまいが、彼は大衆浴場を使わないだろうし、私だって彼とプールや温泉に行きたいわけではなかった。ただ、私は彼にとって黒線で描かれた猫より劣る程度なのが気に喰わないのだ。

 クリームパンに続き、和風ツナマヨネーズのおにぎりを平らげた彼は、ずずっと音を鳴らして野菜ジュースを吸いこむ。床に放置された空の袋は蝉の抜け殻より儚く虚しい。
 無防備にむけられた猫背の彼の首の付け根で、猫が呑気に寝転がっている。
 近くにしゃがんでも彼は気に留めるようすもなく、飲み終わったジュースのパックを解体しはじめた。薄っぺらい皮膚のしたで骨が、筋が動く。猫は寝ている。

 私は息を潜め、彼の首へと喰らいついた。
 いた、と彼が言ったのが聞こえた。

 エナメル質がやわい肉に喰いこみ、筋肉が強張るのがわかる。押しつけた舌が猫を捉えたかどうかはわからない。あるのはうっすらとした塩味。

 子猫の首根っこを咥える親猫の気分になってきたところで離れると、ふたりの間を唾液が細い糸みたいになってつなぎ、重力に耐え切れずにぷつりと途切れた。てら、と濡れた肌には歯形が額縁のように刻まれたが、中身はからっぽだ。

「なに?」

 彼が振り返る。その声色からも、表情からも、彼が何を考えているのか読み取ることができなかった。ふと目を逸らした先の耳朶には穴がないのだと、今さら発見する。

 傷も黒子もない耳に視線を奪われ、自分の名前が呼ばれたのだと気づくのに時間がかかった。

 返事をする前に、彼の骨ばった手が伸ばされてひきよせられたかと思うと、ふたりの額がぶつかる。虚弱なのは外見ばかりで、実のところそれなりに腕力があるし、風邪もめったにひかない。駅から大学までの三十分も歩けば足裏が悲鳴をあげ、半年に一度は寝こむ私よりもよほど丈夫なのだった。

 この期に及んでまだ他所事などを考えている私を責めるように、再び彼のくちから私の名前が発せられる。
 明るい瞳は私をひたと見据え、逸らすことを許さない。彼は虹彩だけではなく、視線まで澄んでいる。透明すぎて、まるでこちらの皮膚のした、骨も内臓も、心まで見透かされているように錯覚する。

 ぬくい指先が私の下瞼をなぞる。かすかに醤油の芳ばしい匂いがした。

 ずれていた呼吸がだんだんとそろっていく。

 床についていた手を彼の首にまわした。するりと這わせた指の腹に、皮膚のへこみが応える。ふ、と彼が息だけで笑った。
 私の視界には彼しかいなくて、彼の視界には私しかいない。
 血の気の薄い唇の端がきゅっともちあがる。八の字になった眉のしたで、目が三日月の形にたゆむ。

 彼の無気力な瞳に、感情がのる瞬間が好きだ。怒りでも、悲しみでも、喜びでも、色づき、光が灯る瞬間が好きだ。その眼差しで私を捉える瞬間が好きだ。これのために私は食糧の調達だってするし、首筋に噛みつくし、ときに干物になってしまう彼とともにいるのだ。

 彼の猫が彼の背骨越しに胡乱な目を私にむけているが、それがどうしたというのか。私の行いがどれだけあほらしかろうとも、単調な線でできただけの猫に睨まれようとも、知ったことではない。私は、好きなものを手放せないのだから。

 チープなワンルーム。絵のない額縁。菓子パンやおにぎりの抜け殻。

 昼下がりの陽光に照らされ、きらきらとひかりを放つ塵のなかで私たち、まるで俗世から切り離されたみたいに腕を絡めて笑っている。

<終>

最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。


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