【小説】拝啓、世界の終わりから
「世界の終わりの音がする」
彼はそう言うと、微笑んでみせた。春、あたたかな気候に誘われた蕾がほころぶように、ふわりと。
笑っている場合ではないだろうに、それでもひとは、こんなに美しく笑う。
「それは、どんな音?」
「目を閉じて、ようく耳を澄ましてごらん」
彼の白くほっそりとした手が、僕の耳をそっとふさぐ。薄い皮膚に透ける血管は青くて、では流れる血の色は僕と同じなのだろうかと気が逸れる。それを咎めるように、彼の手にほんの少しちからがこめられたので、僕はゆっくりと瞼をおろした。
耳に押し当てられた手のひらはあたたかく、しかし髪に埋もれた指先は冷たい。
とくとくと皮膚を鼓動する心音は僕と彼、どちらのものだろう。
静かに彼に身をゆだねていると、どうどうと、奥から海鳴りが聞こえてきた。なるほど、海から生まれた僕のうちには、海が潜んでいるらしい。
そろそろと目を開けると、彼の涼やかな浅葱色の目とぱちりとぶつかる。
「これ?」
「ちがうよ」
もっと、耳を澄まして。
うちではなく、そとがわに。
なぐさめるように、低い温度の手が耳を撫でて、促されるままにもう一度目を閉じる。
とくとく。
誰かの心臓の音。
どうどう。
流れる血潮の音.
ちりちり、ちりぃん。
薄い硝子が震え、擦れる音。
はっとして目を開く。
「聞こえた?」
「聞こえた」
ちりちり、と鈴が鳴るような音が鼓膜をくすぐる。その繊細な音色の合間に、ひび割れ、砕ける音がまじる。ぱりん、ぱりんと、もう二度とよみがえらない。
これが、終わりの音。
彼の背後には真っ白な木々が並んでいた。まっすぐな幹から、枝の先まで純白で、僕が知る白樺の木に似ている。ちがうのは、葉が瑞々しい緑ではなく、透明で、虹色の光沢を帯びていること。
樹木や僕らの足元には天色の小さな花が咲いていて、こちらの丸い葉や茎も白一色で、僕が知っている植物ではないようだった。
視線をあげれば目の前には彼。彼も肌から髪からまとう服まで白く、穏やかにひかる目だけがアクアマリンの煌めきを放つ。
「きれいだ」
鳴り響く玻璃の音も、白と青で構成された淡い世界も、僕らの前髪を撫でる風も、僕を見つめる彼の瞳も、すべてがきれいだった。きれいで、胸がしめつけられるように切なくて、抱きしめたいくらいにいとしくて、だから僕は「きれいだ」と言った。
きらきらとひかりを弾く宝石が、すうと弧を描く。
「きみは、この世界をきれいと言ってくれるんだね」
耳どころか、顔をすっぽりと彼の手に包まれたまま、僕はこくりと頷いた。
「われわれは、どこかで間違えてしまったんだ」
白く細い髪をそよ風に遊ばれながら、彼はしずかに言った。
「なおすことはできないの?」
今度は、彼がこくりと頷いた。
たくさん間違えて、間違えすぎて、なにが間違いだったのかすら、もうわからない。
「これが、間違いを正さなかった報いなんだ」
ぱりん、とまた軽やかな音が響く。
「われわれのちからは、とても高度で、強くて、美しかったけれど、同時になによりも傲慢で、独りよがりで、暴力的なものだった。それを知っていながら、先人たちはちからを使うことをやめなかった。そうしているうちに、間違いが増えすぎて、わからなくなってしまった」
だからこれは、当然の報いなんだよ。
彼の口調は軽やかで伸びがあり、唄うようですらあった。彼の語ることばと彼の淡くやさしげな雰囲気に強烈なコントラストを感じて、目の前で小さな星がちかちかと瞬くようだ。
すん、とすすった鼻に、この世界のにおいは届かない。
「あなたは、それでいいの?」
このまま滅びるのか。抗わないのか。
僕とそう変わらぬ年格好の彼は、老木のような悠々とした眼差しで僕を見る。
「もう、あきらめてしまったから。生まれたときから、ずっと。期待なんて、一度もしたことがない」
じわり、と色の境界線が滲む。喉がきゅうと詰まって、苦しくなる。
不鮮明になった視界で、彼の瞳だけが、透きとおっていて。かさねた手は生きていて。裸のくるぶしを花にあやされて。
「きみは、泣いてくれるんだね」
彼がくすくすと笑う。硝子の擦れあう音にかき消されてしまうほどの、控えめな笑い声。
「だって」
僕のうちなる海が目の端からこぼれ落ちる。
触れあう手の温度は、もう指先まで同じ。
「こんなにきれいだから」
透明な葉がしゃらしゃらと揺れる。
きゅっとくちを結んだ彼が、眉をよせて、苦しそうに、それでも笑う。
刹那、まじわる指にこめられるちから。
「きみはどうか、きみの世界を大切にね」
彼は僕を突き放した。
あっけないほどにあっさりと、背から落下していく。
最後に見た彼は、すがすがしい青を背負って、白く輝いていた。
僕は、いつも使っている僕のベッドで目を覚ました。
仰向けの状態から、ぐるりとからだを反転させるように寝返りをうつ。
見慣れた景色は無彩色。
夜から朝へと移り変わる、一日のなかでもっとも閑静な時間帯。
すん、と鼻をすすると、昨日洗ったばかりの枕カバーからほのかな石鹸のかおりがした。
枕に押しつけた耳の奥、硝子の囁きの名残。ぱりん、とひとつ割れるたび、遠く遠くなっていく。
彼は僕へ、世界を大切にね、などと言ってくれたが、それはとても難しいことだと思う。
どこにでもいる矮小な人間でしかない僕に、世界をどうこうするちからなどなくて、ひとりひとり声をあげることが大事だとか言われたとしても、やはり現実的ではなくて。僕はヒーローではないのだから、あまりにスケールが大きすぎて、やわらかいだけの無力な手には余るのだ。
僕に今できることといえば、どこの誰とも知れぬ彼の淡い笑顔を思い出し、ひっそりと枕を濡らすことだけだった。
ぱりん。
世界の終わりの音がする。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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