【小説】徒花のひと
ガラス張りの温室はドーム型で、遠目に見ると鳥籠のような形状であった。
蔦植物に覆われ、外からなかを窺い知ることはできない。
首からさげた真鍮の鍵で扉を開けると、青臭く生ぬるい空気に抱擁されて一瞬だけ息が詰まる。
トモエは籐で編まれた籠を抱えなおし、蛇行する道を歩き出した。
煉瓦を敷き詰めてできた道は植物の緑とのコントラストが鮮やかで、トモエの視神経を刺激する。
風もなく、虫一匹いない温室は燦々と差す日と静寂に満ちていて、トモエだけが異質だった。
艶々とした丸い葉の表面に水滴がのっている。水の気配も濃く、水遣りの直後なのだろう。
コンピュータ制御された温室は定時になると天井から雨のように水が撒かれ、植物の根元に差された器具から一定量の栄養が注入される仕組みになっている。
温室ができた当初とは違い、トモエ以外の人間が立ち入ることは殆どなかった。
大振りな黄色い花が目に入り、トモエは足をとめた。淡い色合いの花弁は堂々と咲き誇っているが、同時に儚さの象徴でもある。
もう外の世界では、固められた地面の隙間からでも生えるような強かな小花しか見られなくなった。それも、花まで咲くことは稀である。
大輪の花々はここで、ひとの目に触れることなく密やかに咲き続けるしかない。
立ち入ろうとする人間を阻むように生い茂っていた植物たちが途切れる。目的地に着いたのだ。
円形に開けた温室の中心。
そこに置かれた一脚の椅子と、眠るように座る人物がひとり。
唯一この温室で水が降らない場所であり、空気はからりとしていて温度も差があるようだった。
「……こんにちは」
トモエが声をかけても、そのひとは目を閉じたまま、微動だにしない。
あまりに静かで居心地が悪くなり、トモエは足早にそのひとの近くへと向かった。
その精緻な顔立ちは日差しに晒されているにもかかわらずいつでも蒼白く、頬には淡い睫毛の陰が落ちていた。髪は艶があるのに老人を思わせるほどに真っ白で、まるで色素だけがごっそり抜けてしまったよう。
人間離れした冷ややかな美しさは無機質だが、ほんのりとそこだけ色づく唇がはにかむように微笑んだ形をしているために、どこかやわらなかな印象があった。まるで、腕のある職人に作られた高級な人形みたいだ。けれど、そのひとはまるで植物のようにひっそりと呼吸をし、心臓は黙々と全身に血を送っている。
トモエはそのひとの近くへもっていた籠を置いた。
耳許でかさりと葉が擦れる。
深い眠りに落ちているように見えるそのひとのからだは殆どを緑に覆い尽くされ、さらにそこにいくつもの赤い花が咲いていた。
ものものしいまでに赤い花は甘く打ち薫る。いつまでも嗅いでいたいような、だが油断すると取り憑かれてしまいそうな、魅惑的な香りであった。
軽く頭を振ったトモエはわきに置かれていた盥を手に立ちあがり、水道のほうへと移動した。
旧式の蛇口を捻り、盥に水をためる。
ある程度たまったら水をとめ、溢れないようにあのひとのもとへと戻る。
懐からパウチされた袋を取り出すと、中身を水へと注いだ。紺碧の液体が水に混じり、浅瀬のような色合いに染める。
「……失礼します」
返事がないとわかっていながらもひと声かけ、トモエは眠るひとの素足をそっとすくった。
さらりとした肌は陶器のような見た目でも、触れると芯のあるぬくもりをもっている。
ゆっくりと冷たい水へと裸足を浸し、マッサージするように水中で片方ずつ揉んだ。甲から踵、指の間に爪と皮膚の境目まで水を行き渡らせる。
まずは右。次は左。ひと通り作業を終えたら、しばらくの間そのまま浸す。
トモエの指先からぴたぴたと雫が落ち、煉瓦を点々と濃くした。
白い足に水面の影がゆらゆらと揺れ、赤い花が甘い芳香を放ち、トモエをくらりと酔わせようとする。微睡にも似たそれを、トモエは仕事中だからと抑えつけた。
ぎゅっと固く目を瞑り、再び開き、視界に入ったものにぎくりと肩を跳ねさせる。
あ、とあげたはずの声は音にならず、吐息だけが空気へと還る。
茶色く透き通った瞳がトモエを見ていた。
焦点のぼやけた双眸は今、確かにトモエを見つめていた。口角は相変わらずうっすらとあがっており、まるで笑いかけられているみたいだった。
今日は、目を覚ます日なんだ。トモエは心のうちで独り言ちる。
ここへトモエが通う頻度は二日に一度であったが、このひとが目を覚ますことは滅多になかった。
それに、目を覚ますといってもぼんやりとトモエを見ているだけで、動いたり意思の疎通ができる気配もないのだった。
薄い茶色の目と見つめあっていたトモエは、はっと自分の仕事を思い出して視線を落とした。
盥のなかでは浅い青が涼しげに揺蕩っている。
ちゃぷん、と小さな水音を立てて、トモエは水に浸かっていた足を右からもちあげた。
たたた、と踵から水滴が垂れ、水面にいくつもの波紋を描く。
トモエは清潔な真っ白いタオルで丁寧に足の水気を拭った。甲から踵、指の間に爪と皮膚の境目までやさしく拭いていく。滑らかな曲線で構成された素足は、タオルより眩い白である。
拭う間、沈黙したままのひとの視線はトモエへと注がれていた。
からだの深いところで心臓がとことこと脈打ち、かすかに手が震える。
綺麗な裸足を傷つけることなどないように、呼吸までひそめて、拭き終わった足から煉瓦のうえにおろしていく。
うっすらと青に染まったタオルをわきに除け、今度は籠から花鋏を出した。
「あの、」
どこか虚ろな眼差しは変わらずトモエに向けられていた。
「失礼します」
それだけ言い、トモエは真っ赤な花に鋏を入れた。
ぷつ、とかすかな手応えがし、ほろりと手のうちに落ちる。
首だけになってなお、花は甘く香った。蕊はまるまると太り、突けばたちまち花粉があふれそうである。
このひとの足に触れたときと同じよう、丁寧な手つきで花を籠へと入れたトモエは、次々に開ききった花首を集めていった。
この花の花粉と花弁を特別な方法で加工すると薬になる。
外の世界で蔓延する病気の薬である。
どこから感染するのか、どうしたら発症するのか、いまだに解明できない病でありながら、その致死率は高い。この目に沁みるような赤い花が薬になるとわかるまでに、多くのひとびとが苦しみ、死んでいった。
今でも病はなくならず、苦しみと死に怯えながら薬を待つひとびとがいる。
それなのにどうしたことか、特効薬となる花はこのひとに宿る植物からしか咲かないのだった。
土に植えても、ほかの生き物や人間に寄生させても、目を見張るような赤い花はひとつも咲かないのである。
何故このひとだけなのか。何故このひとなのか。
トモエはその答えを知らない。
トモエが知っているのは、かつてトモエを救った薬がこの花からできたということだけである。
自分の命を救ってくれた花を育て、苦しむひとの命を助けたい。そう思い、トモエはこうして働いている。
まさか花がひとに寄生して咲くものだとは、夢にも思わなかった。
ぷつ、とまた一輪、花を摘む。
ふとあげた視線と視線がゆったりと絡み、トモエは無性に泣きたいような心地になった。
この命の恩人が、いっそ人間でなければと考えるときがある。
艶のある白髪、人間味に欠ける面立ち、開かれることのない唇。それなのに、薄茶の虹彩はトモエのものによく似ている。
呼吸をしているかもあやしいからだはしかし、そっと触れると血の通うぬくもりがあった。
淡く澄んだ瞳はトモエの心のやわらかい場所を切なくさせ、甘ったるい芳香が思考を痺れさせる。心臓が痛いくらいに胸骨を打って、汗がじわりと滲み出す。
手にした花を、くしゃりと潰し、食んでしまいたかった。このひとに絡みつく赤をすべて摘み取って、甘い蜜も苦い花粉も余すことなく呑みこんで、胃液で溶かしてしまいたい。
そんなことをしたら、トモエは二度とこの温室に立ち入れなくなるだろう。過去の自分のように苦しみ、薬を待ちわびるひとたちを悲しませることになるだろう。
理性と衝動がくるくると駆け回り、熱したバターのようにどろどろに溶けあって、胃の腑からあふれてしまいそうだった。
きっとこのひとは、トモエがそんなことをするのを望まない。何も言いはしないけれど、静かに慈愛をかたどる微笑みを見るとそう思うのだ。
だからトモエは、名づけることのできない衝動をじりじりと、形を失うまで焼く。ひとの目に触れることもなく、実をつけることもなく、それは何度も芽生え、灰になる。
たとえ胸が内側から裂けてしまいそうなくらいに痛んだとしても、胃の底が焦げついたように苦くても、トモエはそうしてやるべきことをやり続ける。
じんと火照った目許をこすり、トモエは手にした花を籠へと入れた。
今日、最後の花だった。
籠いっぱいに詰まった花を見やり、盥に張ったままだった水を水道へと捨てる。きらきらと光の粒を散らしながら浅葱色が排水溝へと流れていくのを見届け、盥をもとの位置へと戻した。
薄く青に染まったタオルと鋏をベルトに挟んで固定し、籠をもちあげる。
「……さようなら」
何の感情も浮かばせず、ただ優しいだけの薄茶は瞬きすら返さない。
一輪たりとも落とさぬよう、トモエは用心深く歩き出した。
歩くと鮮やかな赤が揺れ、眩むほど甘く薫り立つ。
ゆうらりとくゆる香りにつられて振り返った先、あのひとはまだトモエを見つめていた。
その周りには赤く膨らんだ蕾がいくつもついている。次、また来たときには満開に花開いているはずだ。
それをトモエは再び摘む。
決して実になることのない花を一輪一輪、丁寧に。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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