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雑考・日記・メモ「福祉としての生涯学習」

福祉としての生涯学習

大学に行かなくては学べない訳ではない。
学ぶという事は自ら探究し学ぶ事だと思うから。
そして「探究」は知識の学びだけではなくて、五感と悟性と理性を総合した「探究」であるし、「探究」は「問い」をモティベーションとしている筈である。そしてそれは「問い」をモティベーションとする故に信仰は異なる志向を持っている(「問い」の前には「驚き」がある。「信仰」の前にも「驚き」は在る。そこまでは同じだけれどもそこからが異なる)。

「問い」は「探究」となり「学び」に繋がっていくのであるが、「学び」は誰かに学ぶという事ではない。私は世界を前にして学ぶのであり、時としてその中に書物があり、誰か(専門家)がいたりするというだけであろう。だから必ずしも誰か先生に師事する必要があるわけでもない。

また「探究」や「学び」は教育の領域で語られることが多く、確かに重複する部分もあるのだが、「探究」や「学び」の本質は、実は「教育」とは全く異なるものではないのか、とも思う。

例えば「成人教育」や「社会教育」は教育のカテゴリーであろう。
では「生涯学習」はどうなのか?
これは教育のカテゴリーに属するものなのだろうか。
私は「生涯学習」は「教育」ではなく「福祉」のカテゴリーに属するのではないかと思います。
生涯探究し学び続ける。それは「教育」と異なる。のみならずそれは、「問い」を学びの本質とする以上「信仰」とも異なるのだろう。

本来、そもそもの「大学」はそうであったのかもしれない。
大学の始まりは、学びを欲する学徒達が、自ら学ぶために講師を雇い、学びのギルドを自分たちでつくったのが始まりなのだそうだ(ボローニャ大学等)。そこでは私塾の様な師弟関係ではなく、講師と生徒は対等な関係にあったのだという。そして学則は生徒を縛るものではなく、講師の行動を制限するものであったのだとか。
学びたい者が、「独りの学び」を前提としつつも、「一人で学ぶ事の限界と心細さ」の克服としてギルドを作る。それは教育ではなく生涯学習を継続するための、自助共助の福祉であり、そのような「場」はいわゆる現在の大学でなければならないわけではない。生涯学習=福祉としての大学をそもそもの大学発祥の原点に戻って求めるならば、それは、市井の中にそのような「場」をどうしたら作っていけるのだろうか?と言う実践に繋がってく必要があるのではないだろうか。

2021年10月26日 岡村正敏

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