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哲学・日記・メモ「多様性っていうけど多様なものを本当に認識しているの?」

多様性っていうけど多様性は多様なものを本当に認識しているの?

そもそも「多様性」の出自はとてもプラグマティックなものではなかったか。
多様であることによって、大きく急激な環境の変動に対応出来る、そういった絶滅回避の為の「多様性」ではなかったか。つまり生き残る為の多様性。それが「人権拡張の為の多様性」となり、「信仰と結んだ在り方の為の多様性」として、次第に適用が拡張されてきた節があります。しかしそれはそれで良くて、何も原義に過剰に固執する必要はない。むしろ固執にこそが害がある。と考えます。
と、ここまで考えたうえで「多様性」という事を現象学として考えてみるとどうなるのであろうか?
「多様なもの」とは一体何であるのか。

結論から言うと「あるがままの多様」を私は認識できません。
詳論すれば、私は総ての多様な個々を一挙に認識できないからであります。
もっと具体的に言います。
赤青黄緑。
多様な色が目の前にあります。
私は「赤青黄緑」を一度に認識できるでしょうか?
私は出来ません。
赤を見ているときは、赤を見ている。つまり私が対象としての赤を認識している。
青を見ているときは、青を見ている。つまり私が対象としての青を認識している。
それだけであり「赤青黄緑」を一挙に認識する事とは、個別の色を認識する事と「認識の階層」が異なっています。「赤青黄緑」の認識とは「多様な色と言う概念」の認識であって、個別の赤や青の認識の階層の上位にある、概念の認識であるからです。
という事は、私は常に「私と個別の赤」とか「私と多様性概念」との「対」においてしか認識していないのであって、つまり、「私と対象」と言う二項対立においてのみ認識が成り立っているという事です。

とは言え、こういった現象学を拠り所とした考察は、実生活や暮らしのプラグマティックな営為と単に異なるというだけで、プラグマティックな営為として語るならば「多様性」はいや増す重要なワードとなっていく事に異論はありません。


2021年10月8日 岡村正敏

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