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メメント・モリ 亡き友のこと

    メメント・モリとは、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬときを忘れるな」という警句。 

 哲也と知り合ったのは、ぼくが高校2年生秋に生徒会執行部に入ってからだ。  
    哲也は学年は1つ下だったのだけれど入学してから生徒会室に出入りしていたので、 どちらかというと生徒会の中では一目置かれる存在だった。
それでも哲也は一匹狼みたいなところがあって、特に同級生とのつきあいが下手のようでぼくたち先輩とのつきあいが気に入っているようだった。
細身でハングリーさを持っていて、ひょうきんさとさみしがりな部分をあわせ持った性格だった。
哲也の家庭環境や生い立ちは聞いてはいけない気がしていてよくわからないけれど、温○湯で育ったり、中学校の頃は陸上部の短距離選手だったようだ。

 なぜ、ぼくと気があったのかはよくわからないけれど、哲也は良く慕ってくれた。 哲也は、ぼくだけを親友としてくれたようだった。 ぼくとは小さな意見の対立さえなく、ぼくの考えや存在をかなり尊重してくれていたように思う。 ぼくも哲也も生徒会なとで目立つ役回りのために一部の生徒から嫌がらせをそれぞれ受けていたこともあったし、別にそれはそれでお互い周りに漏らしたりし ないでいたところは似ていた。 ピンク色が好きで、スポーツウェアなどもいつもピンクだった。

    哲也は、ドリカムや尾崎豊、長渕剛、中島みゆきのカセットテープをぼくに勧めて貸してくれた。ぼくはそのころサザンや安全地帯、オフコースなんかを聞いていた。 哲也は高校生活では、図書同好会にも所属していて、よく図書室にも出入りして推理小説なんかを好んで読んでいた。

 生徒会にしても図書室にしてもきっと哲也は自分の居場所が欲しかったのだと思う。
哲也は2つ学年上の白滝から通学していたMさんというしっかりした女性にあこがれていて、いつも一緒にいては甘えていた。

 高校3年生の夏、ぼくらが実行委員を務めた学校祭の準備で忙しかった夏休み、哲也は暑い炎天下での作業中に具合が悪くなり、早退した。
その後すぐに入院となり、旭川の大きな病院へ行ってしまった。それまで何一つ体調の不良を訴えていなかったので、どうしたのだろうくらいにしか思わなかった。 旭川へ生徒会の顧問だったS先生やO先生たちとお見舞いに車で行った帰りに、先生が哲也の病名を教えてくれた。
悪性リンパ腫、10万人に1人という極めて発病確率の低いリンパのガンだと言っていた。 当時のぼくには哲也がすぐにどうなってしまうのか全くわからなかったけれど、哲也は学校へも来れなくなり、しばらくして退学してしまった。

 ぼくはその後網走の大学へ進み、休みをみつけては北見の日赤病院に転院した哲也を見舞った。一緒に看護婦さんをからかったり、外出の許可がでたときにはおしゃれした哲也と一緒に北見の商店街を歩いた。ときには、車で美幌峠などへドライブした。尾崎豊を聞きながら、助手席で風を感じている哲也は幸せそうだった。

 ある日いつものように見舞いに行くと、再び抗ガン剤を服用しているのか、かなり髪の毛が抜けていた。哲也は真面目な顔でぼくにバリカンできれいに刈ってくれと切願した。 しぶしぶ髪を刈っていると病院の先生にひどく叱られたりもした。

 哲也は自分の病名や余命を知らされてはいなかった。 ぼくは、哲也のお母さんにその春にはあと3ヶ月の余命と聞いていたので、会うことが切なくてしかたなかった。

 哲也は、病院内でタバコや酒、マージャンを覚えたり、北海道で唯一の通信高校である有朋高校へ入学して再び勉強を始めたり、気分の波や集中治療室での孤独で苦痛な治療、 痛みがはげしい中、必死に自分の青春を燃やしていたのだと思う。
哲也は必ずぼくにおいでよ、というときにはつらい顔を一切見せず、調子の良いときを選んでいたようだった。
 そして何回か哲也は、帰省許可がでると必ず生徒会で一緒だったOさんやNさんなどに会いたがった。いつか一緒に生徒会で過ごしたみんなで哲也宅におじゃまして、つるつる頭になってサングラスをかけてはサンプラザ中野とか松山千春といっておどけていた哲也とパーティなどをやったりした。哲也は酒を飲んで、ご機嫌だった。一緒のぼくたちは複雑だったけれども。

 ぼくが大学3年生になろうとしていた2月、哲也は自分の余命を感じたのか北見の病院を強引に抜けだして遠○町の自宅に戻り、夢だった自分の働いたお金でラジカセとベットを買いたいと仕事に就いたらしい。
 その間、よほどつらかったのか疲労が限界にきていたらしい。仕事後もすぐ自分の部屋に倒れ込むように寝ていたらしい。
 そんな無茶な体での生活は1ヶ月ともたず、すぐに遠○厚生病院に緊急入院となった。

 困難な積雪期の利尻岳を天候に恵まれて登頂し、たまたま実家へ戻っていたぼくに電話が入ったのは3月24日の午前中だった。
「哲也がもうダメかも知れないんです」と哲也のお母さんからだった。
急いで病院に向かい個室の病室に入ると、久しぶりに会った哲也は、見るかげもなく痩せこけて、ぼくは一瞬、直視できなかった。 痛み止めのモルヒネももうきかないのか何度か苦しい顔を見せた。 哲也のお母さんが、「来てくれたよ」、哲也に声をかけてくれた。 そして、ぼくはそっと手を差し出し、細い手を握るとかすかに握り返してくれた。 じきにそのまま、本当にそのまま、心電図が平行な線になっていった。 哲也のご両親と大声で「哲也、哲也!」と声を出しても何の反応もなく、平行な線は無情にもそのまま直線をたどりつづけていた。
何事もないかのような正午の陽気の中、哲也の若い体から哲也の魂は昇天していった。 ぼくは、哲也が飲んでいたスポーツ飲料をもらいその日は実家に帰った。

 翌日の夜、遠○町で哲也のお通夜がとりおこなわれた。 泣いて鼻水がだらだら落ちるのも恥ずかしいと思わなかった。 となりでNさんがハンカチを貸してくれた。そのことは覚えている。
お通夜が終わったとき、哲也が注文していたラジカセがようやく電気店から会場に届いた。 哲也が聞きたいとお母さんに頼んでおいたのは井上陽水の「人生が二度あれば」のCDだった。さみしげで不安げで、申し訳なさそうな顔をした哲也の遺影の前でCDを聞かせてあげた。結局買った自分のベットにも一度も寝ることもできず、哲也は逝ってしまった

   ぼくはその晩、泣き疲れと放心状態で会場に泊めてもらった。
翌日は友人代表というものをはじめてしたけれど、全く声もでなかったし、涙で文面さえ読めず、とぎれとぎれでようやく役目を果たしそのまま祭壇へ置いた。 ぼくにこんな役をさせる哲也が悔しく腹立たしかった。 出棺のときには、別れたくなくて自分でもどうしようもなく、棺にしがみついて泣き崩れてしまった。周りの大人たちがぼくをそっと抱えるように棺から引き離し、クギを打ちはじめているのを見て冷酷だと思い、理解し難った。
お骨拾いにも同行させてもらったけれど、ぼくは哲也の骨を見るのがつらくて、直視できずに隅で何もせずうつむいていた。
外は雪解けも始まり、曇り空の暖かい日だったけれど、想い出の中では何一つ音の記憶がない。

 ぼくは、なぜもっと早く生きている哲也に会ってやれなかったか、そしてその頃、ぼくの下宿へいつも来ていた哲也からの手紙や電話が来ないことをどうして気にしてやれなかったかと後悔で一杯になった。
ぼくの20才の心は悲しみと悔しさで荒れ狂う海と化していた。
哲也は19才という若さで、2年半の闘病生活を送り1度きりの人生を終えた。
最も自分が葛藤し、自由を求め、その生きるエネルギーにあふれている魂をもっていた哲也は、死にゆく己の肉体を抱えながら、何をこの短い生涯に得、どんな答えを見つけたのだろう。 街にあふれる若者の輝きも、自由な世界も、愛する女性のぬくもりさえも知らぬままに-。

 哲也が逝ってしまってからは網走市へ帰る気になれずに実家でぬけがらのように過ごした。 母が心配して「そんなに悲しむと哲也くんも悲しむよ」と声をかけてくれたけれど、 その「哲也」という言葉を聞いただけでまた涙が止まらないといった毎日が続いた。

 ぼくは、毎月の命日に1年以上遠○町に通った。
 遺影の哲也はいつもぼくを励ましてくれているかのように見えた。
 ぼくは、あまり哲也のご両親に会うと、ご両親も思い出して悲しむと思い、それから 年1回の命日やお盆に伺うようにしていった。
 哲也は、ぼくによく言ってくれていた。 「あなたなら、大丈夫だよ」と。

 ぼくの心の中には哲也がいつもいてくれる。
 ぼくは、ぼくだけを慕ってくれた哲也の分まで人生を経験してやらなければならないと今でも 思う。
 短い生涯を閉じた哲也の残してくれたものは、今も日常をつづけるぼくに重なっていくのだろう。

親友- 故T 哲也君 平成3年3月24日逝去 享年20才


追記 -17年忌の時空を超えて-

平成19年のお盆が近づこうとしていた12日、本文中に出てきたMさんと偶然出逢いました。 そうです、亡き哲也が甘えて慕っていた2つ年上のしっかりした女性のことです。 あの悲しみのとき以来の、16年振りの再会です。
このページを見つけたMさんのご友人が、Mさんに、"もし勇気があるのなら見てごらん・・・"と そっと気遣って教えてくれたのだそうです。
Mさんは、封印して心の奥に仕舞い込んでいた当時のことを、ここで哲也と再会したそうです。 哲也が病気になってからの事、闘病生活、あの葬儀の日の事、ずっと自身の胸の中に閉じ込め、 誰にも言わずに今まで過ごしてきたそうです。

写真も手元に一枚もなかったので、ここの画像を見て涙が溢れたそうです。 忘れかけていた哲也の顔も思い出せたと云います。 4時間以上、あの頃の哲也を中心として駆け抜けた青春のことを、ぼくたちは語り合いました。 驚いたことは、哲也に対してお互いにそれぞれの関係があり、一部に勘違いがあったことです。

ひとつめは、哲也は、すでに高校一年生の段階でMさんとお付き合いをしていたという事実。
哲也は二年生に進級し、社会人になられたMさんと夜な夜なドライブ等を楽しんでいたのです。 あいつは、それらをオレに隠していましたよ。照れ屋の彼らしいと云えば、そうなのですが。 うぶで田舎者のぼくよりも、ちゃんと、マセて青春を満喫していたんですね、あいつ・・・。

ふたつめは、てっきりお付き合いなどしていないと思っていたぼくは、入院している哲也のこと を、当時、どうか貴方に見舞って欲しいとMさんに何度も手紙で切願していたのです。
しかし、2人には2人の事情がありました。 旭川へ入院していってからもMさんは毎週のように見舞っていたそうです。時にご両親と共に。 医療関係の職に就いていたMさんは哲也の病を悟り、ご両親からも聞かされていたそうです。 しかし、あいつはMさんとの面会を毎回拒絶し、しまいには"別れてくれ"と云ったそうです。 病院の電話口で泣いていたそうです。もちろん、Mさんも泣き崩れました。 男らしい決断ですが、Mさんに甘えん坊だった哲也自身は、きっとつらかったと思います。 愛していたMさんは、あいつの死の時よりもそのときの葛藤の方がつらかったと云います。
愛する彼に逢えず、拒否され、同情する余地さえなく、気持ちの行き場はなかったでしょう。 そんなことは知らずに、Mさんに病床の哲也へ逢いに行って欲しいと懇願していたぼく・・・
ですから、今まで、Mさんは、哲也の親友だったぼくには恨まれていると思っていたそうです。 そんなことは露知らずでした。ここの点はMさんに勘違いされていました。

やはり、哲也には複雑な生い立ちがあったようです。 お母さんはお義母さんだったのだそうです。(実のお母さんもお通夜には見えられていたようです) でも、そんな素振りは一切なかったです。しっかり母子の絆ができていたと思います。 お義母さんが小学生の哲也たち兄妹に出逢った頃、学力や心は、とても荒れていたそうです。 とても尊敬できるお義母さんですよね。改めて知りましたもの、ぼくは・・・。
お父さんもお父さんで、「哲也の治療のためには家もを売り払う」と懸命だったようです。

Mさんは、旭川に入院していた哲也に受け入れられずに別れ、心の整理が必要だったようです。 どんな人と過ごしていても、心ここにあらず状態だったらしく、夜の海に想い出の品を捨てにも行ったそうです。若き日に愛する人のことを忘れることなんて、なかなかできませんよね。

北見の日赤病院に転院してから、一度だけ、哲也はMさんを呼んで面会してくれたそうです。 Mさんに、たくさんの話を目一杯に楽しく一方的に語ってくれたと云います。 もうお互いに恋愛終焉の整理がついて、落ち着いていたのでしょうか。
集中治療室での治療は、孤独とも闘い、本当につらかったようです。 哲也は、自傷行為や自殺の企画までしていたと云います。相当苦しんだのは想像がつきます。
ぼく宛への手紙は、何故かその集中治療室からの手紙が多く、明るい文面でありました。

当然、哲也は、自身の病気に対して疑いも持ち始めていたようです。 「お母さん、オレの治療費はどうなってるのー?」と、いつか聞いたこともあるようです。 
「この点滴は何のためー?」、何度も何度も治療措置に疑いをも訴えてもいたようです。 当然ですが、やはり、哲也は自分の病名を最期まで周囲から知りたがっていました。 現在と違い、あの当時は、医師は患者に告知せずに抗ガン剤を使える時代でした。

Mさんへの哲也の死は、実家帰省中のぼくからの電話連絡だったそうです。 どうやってMさんの居場所を探し当てたのでしょう。携帯電話もない時代に。 ぼくはそんなに冷静だったのかな。不思議とその頃の行動が想い出せません。 ぼくは初めての弔辞の準備もしなくてはならなかったはずでもあったわけで。

Mさんも、一年間、毎月命日には、ぼくと同じく、お宅の仏壇にお参りに通われたそうです。 ですが、ご両親に、もう哲也とのことは整理して生きていってくださいと告げられたそうです。 それから、T家さんとのお付き合いは、悲しくも途切れたと聞きます。 真面目なMさんの青春期にとって、本当につらいことだったと思います。

亡き哲也の若い魂のエネルギーは、一年ほど続いたようです。 突然ラジカセを鳴らしたり、窓をガタガタさせたり、幻影となって現れたりと。
あいつは、本当に愛したMさんや、ぼくたち仲間と生きたかったんだよな。 現在の医療水準では助かっていたかな。どうでしょうか。 今では骨髄バンクもあるし、早期発見であれば助かっていたかもなあ。

亡き哲也は、Mさんやぼくたちの中で、しっかりと生き続けていくさ。 もう人生の半分以上、亡き哲也を抱えて生きてきたのだものね。 16年の時空を超え、本当に偶然のMさんとの出逢いでありました。
哲也にも、こうして思い出せてあげられ、良い供養ができたと思います。 長年、Mさんの封印されていた心も、少しは解放されたことでしょうか。
Mさんを取り巻く大切なご友人方も、少しは気遣わなくて良くなったかな。

間違いなく、哲也という奴は、生きていました。ぼくたちの大切な仲間でした。 Mさんの愛した、愛された、唯一の大切な青春の恋人でありました。 当時、若かったぼくたちに"死"というツラさを示して逝きました。

人は、出逢いは一瞬、出逢えば一生なんですよね。

Mさんは22才で警察官のご主人と幸せにご結婚なされ、一児の母、そして医療アシスタントと して、現在も医療現場で"いのち"に関わるお仕事をなさっています。 お元気に人生を歩まれていて、本当に良かったです。

Mさんは、こう何度も云ってくれました。
「死んだ人は何もしてくれない、だから再会できたあなたを大切にしたい、と―」
2007.8.15追記

「―人は人生で二度死ぬと言います。一回目は肉体的な“死”。二回目は人々から忘れ去られたとき。ぼくたちは彼を二度は死なせないようにしましょう。彼の残した功績や生涯を語り継いで…。」


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