【Writing】写真と言語化について/20240521

まずこの記事は、即興で書いている記事なので、何かと稚拙な文章になりそうだが、ご了承いただきたい。そして、稚拙なまま書き連ねてもよしとして書いている。

私がこのnoteを始めたのは去年の12月であったから、約半年前である。noteを開設する前は、写真をネットに投稿するのは、Instagramでの写真の投稿だけであった。今も、写真をSNSで不特定多数の人々に発信する機会のほとんどは、Instagramでの投稿であるのだが、noteを執筆するようになって大きく変わったことがある。それは、写真を言葉で語ることを頻繁にするようになったことだ。Instagramで写真を投稿する際は、写真のタイトルを投稿のキャプション欄に付けるが、写真に添える言葉はタイトルだけである。文章ではなく単語で、数文字から十数字程度である。しかし、noteに写真をアップするときは、長文で写真について語ることもある。その写真を撮るに至った経緯、その写真を撮影した旅程の日記、私が写真を撮るときのものの見方、組写真やAlbum企画全体の世界観や雰囲気、撮影手法などを語っていた。初期から中盤(noteを始めてから今までの期間の中での「中盤」)のころまでは。

しかし、noteで写真を掲載するからには、何か言葉を、文章を添えなければと次第に思うようになっている自分がいることに気が付いた。そもそも、Instagramでも写真は投稿できるし、また、見る手間が少々かかるブログ形式のnoteよりも、気軽に見ることができ、かつフォロワーも定着しているInstagramの方がビューワー数は格段に多くなることは予想していたのに、なぜnoteを始めたかと言えば、
①たまに自分が写真や旅について語る場を設けておきたい。写真を撮ったときのエピソードは時に人に語りたいほどに素晴らしいことがあり、また自分は写真を撮るときにどのように世界を、モノを見ているのか語りたいこともある。
②組み写真を投稿する際に、同じ投稿に収めても1枚1枚が分断されてしまう感のあるInstagramの投稿よりも、同じページといういわば「同一平面上」に見ることのできるnoteテキストの形式の方が、デジタル画面の中であっても1枚1枚の写真が同じ平面にある、すなわち一つのテーマという軸でつながった写真たちであるという感覚が得やすいと思われるので、組写真はInstagramよりもnoteが最適だと考えていた。
の2つの理由であり、特に②のような使い方をすることが多いだろうと考えていた。
もちろん、語るネタがあるときや、語りたい気持ちが走るときは語るのだが、組写真(普段【Album】として投稿しているモノ)は、あくまで写真を並べて見せたいだけなので、無理に言葉で多く語る必要はないと思っていた。コンセプト、テーマについてだけ文章で書いて、あとはひたすら写真を貼り付けて投稿する程度の、気楽な投稿の仕方でいいと考えていた。
しかし、noteはブログである。気づかぬうちに、noteで写真をアップするからには、何かしらがっつり言葉を紡がなければならないと思うようになっていた。語りたいことがあって、言葉が自然に頭に浮かぶときはそのまま書きつければいいのだが、写真を見せたいだけで、言葉で示したいことはあまりないときもある。Instagramで投稿するときは、語りたいことが特になければ、パッと頭に浮かんだ言葉だけキャプションに添えて、無理に言葉を足さずに投稿するが、noteだと、何か語ろうとする。例えば、写真の色味や写り、雰囲気、撮影技法などを長々と。

しかし、そんな習慣が出来つつあると気づいた今、私が思うのは、写真に言葉は無理に添えなくてもいいということだ。私は写真に深遠な、高宗なメッセージを込めているわけではない。私が何かにカメラを向けるきっかけのほとんどは、その被写体や光景に対して何となく「いいな」「面白いな」「美しいな」と思うことである。もちろん、息をのむほど、言葉にできないほどに感動して撮影した絶景も多いが、多くの写真は、目の前にある光景に「何となく」いいな、美しいな、面白いな、きれいだなと思ったことをきっかけに撮った写真である。そして、自分が撮った数多の写真の中からInstagramやnoteに投稿する写真を選ぶとき、私がそれを選んだ理由も、「何となく」「自分の感覚では」いいな、面白いな、美しいなといった理由であることが多い。もしくは、言葉では論理的にかつ具体的には説明できないような訴求力をその写真から感じたという理由であることが多い。言い換えれば、その写真に(言葉では言い表せないけど)強いメッセージ性、心に強く訴えかけてくるものを感じたから、その写真を選んだという理由である。
長々と書いてしまったが、要するに、私が写真を撮り、それをSNSにアップして発表する写真に選ぶ過程で、言葉はあまり介在していないのだ。被写体から言語化されたメッセージを感じとって撮ることも、撮る際に言葉によるメッセージを込めることもめったにない。それなのに、写真に無理に言葉を込めようとする必要はないのではないかと思い始めた。
もちろん、写真に添えたい言葉が頭に浮かんだときは添えればいいと思う。しかし、写真に添える言葉が元々ないならば、添えないままでいいと思う。添える言葉を無理矢理ひねりだすようなまねは必要ない。
だから、これからは無理に言葉を添えることはせずに、何なら言葉をあまり添えない精神で、写真を投稿していきたいと思う。

自分が写真を撮りたくなる瞬間、自分がしばしばカメラを向けるモノやテーマ、自分のものの見方、写真を狙い通りの雰囲気や写りにするために撮影時やレタッチ時に施した工夫、その光景を撮ろうと思った理由といった、写真撮影の自分なりの「方法論」的な内容については、言語化する意義が大いにあると思っている。しかし、個々の写真の雰囲気や色味、写り、感想については別に語らなくてもいいかな、という考えに至っている。特に組写真は、1枚で見せてもあまり意味やインパクトがなく、複数の写真を組み合わせて見せることで初めて生まれる意味やコンセプトがあるから組にしているのだ。だから、組写真全体では意味やコンセプトがあっても、それを構成する1枚1枚には言葉で特筆するほどのことはないことも多いのであって、なおさら無理に言葉を添える必要はないと思っている。

ということで、無理に言語化せずに、感性で写真を見せていこうと思っている。そして、言葉がなくても、写真それ自体で表現できればいいし、写真を見てくれる方々にも、写真それ自体から感じることを感じてもらえれば幸いであると思っている。

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