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sooutsu

何から書き始めようか戸惑うんだけど、手を動かすことでかろうじてなんか進めている気がするようで書いてみる、、文字にすれば胸に埋め込んでる意味も変わってくるだろうなっていう砂みたいな期待もある。けどやりきれないくらい稚拙になるかも。

「躁鬱」というワードに対して、私はこれまでどう向き合ってきただろうか。多分憧れだったバイトが憧れすぎて「なんかしらの成長系の映画冒頭でてんやわんやする主人公」の如くミスばかりの果てにクビになってしまった頃からだと回想できる、ふぅ。

でも躁鬱なんだろうなと思うたび、クビになったなら逆にそうでないと困るとか、こんなに苦しいならむしろそうであって欲しいという慰めとは裏腹に、躁鬱でいることに酔いたい、もっと言えば躁鬱など治らずその症状たちを受け止める身体であればいくら気分が浮き沈みしてもいいとさえ思っていた、なにマゾなの。鬱である面も自分には必要だし、躁でいる自分も両方普通だと思いたいのだ多分。というか両極端でいたいんだそう思っていることに気づいた今、そのほうがなんか真っ直ぐに何かに向かっている実感があってそうゆうものに振りまわされていた方が気分いい、、うーん伝わってるのかな 

そもそも躁鬱じゃないねそれと言われたらこの投稿に意味はないのかな、意味。

いつもなんのために生きているのかという目的と内側から湧き出る脳天から貫いてくる矢印みたいな気持ちが欲しくて、それがないと子供のように心と肉体が繋がっていて全身の皮膚が弛んで参ってしまう。どうゆう日常的イベントが契機になってしまうか分からないけど、鬱(というか気分が終わっている)時は、本当に数ミリの暗雲を体に纏っていて、家の灯りを暗くして何もせずに時間を溶かして、また何もできなかったことに心底悔やんで、「今までの人生なにをしてきたの?」に振り回されている。

結局自分という入れ物から抜け出せないのは分かっているのに、棘を全部内側にしたウニになっている、、、何をもって病気なんて言うんだろうか。クビになってから行った精神科医は形式的に頷いてペンを走らせる仕事をしているようで本当を話せないことを悟ったし、数枚の紙に羅列されたチェックリストの何が病気の境目を意味づけるのか検討もつかなかった。

悩みの9割は対人関係というのも納得で確かに鬱の時そういった比較不幸論に覆い被さっている暗さもあるけど、何よりも自分の理想にまだまだ近づけていないことが悔しくてやるせなくてってことも恐らく私の悲しみの半分くらいを占めている。で結局過程や環境を比べて落ち込むんだろうな。

今回初めてI am a 躁鬱さんなんじゃないか?を書いてみたいと思ったのは本格的に対処しないと流石にしんどいかもこれ、一生付き合っていけるかな?周りの人に迷惑かけたくないな、というかそろそろ新しい世界線で思考してみたいな?と思い始めた故に。いい本を得て知ることから始めようと思う、、ちょっとだけ読んだPDFに「色んなことに手を出して気分じゃなかったらやめるを繰り返したらいい」って書いてあって救われたけど音楽はずっとやっていたいな、ずっと作っていたい、、ってそれだけは思う!

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