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「隙がない」は格好はいいが、近寄り難いということでは?

モーニングショーの気象予報士で俳優の片岡さんを見て思った。
「あのー」とか「えーと」とか「んーと」とか言わずに、噛まずに流ちょうに話ができる人って、すごいなぁ、うらやましいなぁと思うけど。
ガッコの先生とかって、あまりそういうスマートなのは、どうかなって思う。
一方的に話を聞く、講義の場面ではいいかもしれないけど、自己弁護じゃないが、多少は入り込む隙があったほうが、子どものほうから関わりやすいんじゃないかなって。
歯車みたいにギザギザのほうが、噛みあいやすいってこと。

私はアーティスト宣言しました。
もうガッコの先生は廃業。そのかわり、アーティストつまり芸術家という職業人として、これからは生きてゆく。
そのうえで、ガッコの先生の仕事をやってもいいよというなら、やってもいいかなと考えている。つまりこっちの条件を受け入れてくれるならってこと。
しかし、そんなことあるわけないから、だからガッコの先生の仕事はしていませんということですよ。
でも、理想は持ち続ける。芸術家だから。
皆既日食のように、ピタッとはまる一瞬はあるかもしれないよってことで。
万万が一でも、あきらめる必要はない。

話を戻せば、私は本当に話下手。
今まで20年もよくガッコの先生の仕事をやってきたもんだと、自分でビックリするくらい。
でも、20年もやって来れちゃったんだから、話下手ではダメってことではないということでしょ?
そりゃ上手に越したことはないけど、下手なりのメリットも無いわけじゃない。好みの問題も大きいし。
間違いないのがいいなら、ロボットや機械のコンピュータ、AIなんかにさせれば済むこと。
でも、やっぱり人間を選ぶのには、選ぶなりの理由があるってことだと思うしね。

要するに、どんな人でも、その人の個性、良さが出ていればいいってことなんじゃないのかな?
個性とは、その人にしか持ち合わせがなく、代替えが利かないってことでしょ?
ヘタウマみたいに、下手なんだけどどうしようもなくそれがいい、好きっていう感情と同じ。

プロってのは、話がうまいとかのように、そういうスキルが高いというか、テクニックが優れているとか、100点満点とか、有名だとか、肩書があるとか、そういう目に見えて分かりやすいものだけがプロを決定づけるものではないと思う。
地球のコアみたいに、外側からは決して見えないけど、内に秘めた熱いものが煮えたぎって、おさまることを知らない情熱のようなもの、それを持ち続けていて、常によいと思うものを目指している人なんじゃないかな?
プロになりましたっていう、頂点まで来ちゃったら、もうあとは落ちるだけでしょ?横綱のあとは引退しかないっていうか。
そんな言葉などに振り回されないってことも、プロであるってことでしょう。
さらには、プロと認められなくとも、プロ意識を持つってこと、持ち続けている状態であることがいいんじゃね?

「人を見た目で判断しちゃいけません!」ってのは、そういうことなんだよ、きっと。