かばん歌会とひからびた義弟たちへ

ひからびた義弟【おとうと】たちを折りたたむしごとさ 驚くよ、軽すぎて

泣いたっていいんだよって泣いていた義弟があの橋渡り来る

土井礼一郎 (「かばん」2018年11月号 P24 「義弟」より)


今日は所属する短歌の同人誌「かばん」の定例歌会に行ってきました。数年ぶり。久々に行った理由は今号で特別作品を出していたためで、一応別の記事にあげておいたのでお読みください。面白いので。

パロミノ


さて、それはそれとして、たまには歌会に行ってみるもんだなと思ったのが冒頭に紹介した土井さんの歌を読む機会があったからです。実はかばん本誌に掲載されていたのですが、毎号全員の歌をくまなく読んでいるわけではないので見逃していました。

まず「義弟」というワードが珍しい。短歌ではめったにお目にかからない言葉です。短歌のデータベース『闇鍋』で早速調べてみました。
※『闇鍋』とは歌人の高柳蕗子さんを中心として編纂されている短歌のデータベースです。


新宿に義弟百人各各のグラスに映る世界曇らせ 魚村晋太郎「銀耳」

義理の兄と義理の弟義理の父みんなそろって痩せているなり 東直子「青卵」

闇鍋に収録されている89759首中、義理の弟を詠んだ歌はわずかに2首! しかも「義弟」というワードに限定すればたった1首でした。それが一つの連作(8首)のなかに2首もあったのだから、珍しいと感じるわけです。

もちろん、僕がこれらの歌を紹介したのは単に珍しいからではありません。

土井さんの歌は、あまり短歌では使われてこなかった「義弟」という言葉の持つ可能性を気づかせてくれる作品だと思います。男性同士の関係を描くにあたって相手への優しさと慈しみの感情を出しつつも、親密になりすぎず尊重も感じられる絶妙な距離感を、この言葉は描けるのだなと。率直にいってこれらの歌を読めただけでも今日の歌会は収穫でした。

主体の性別が特定できない連作なので、主体も男性という前提で読んでいいかという議論はあると思いますが、「仕事さ」の言い回しとかに男性かなと思わせる要素は十分あると思います。よって他の可能性は排除しませんが、有力な可能性の一つとして男性to男性(義弟)の歌だとして読んでいきます。

男性同士のあるべき関係として信じられているものの一つに、相手を欠点のない一人前の存在と認め合うというものがあります。「お前もやるな」「お前もな」みたいな。あるいは「お前に俺の背中を預ける」みたいな。これらは男性同士の友情であったり父子関係のあるべき姿とされているため、男性はそれを目指すべきだという規範としても機能している面があります。
実際に欠点のない、弱みのない人間はいないわけですが。では現実の男性同士の関係はどうなるか。お互い弱い部分があることは言わないお約束として、相手の男性を一人前の大人という意味での「男」として扱うことが、きわめて重要な作法として機能することになります。
もしそのような男らしさから外れた、つまり弱さを見せてしまった男性に対する扱いはどうなるか。「女々しい」「お前は男ではない」という形で男性のグループから排除するか、あるいは、排除をにおわすことで彼に再び男らしく振舞えという圧力をかけ、男たちの世界への復帰を促すことになります。もちろんすべての男性がそうふるまうというわけではなく、「男性同士の付き合い方」とされているものには、このような弱さを排除するケースがあるという話です。

ひるがえって掲出歌はどうでしょう。ひからびていたり泣いていたりする義弟は明らかに弱く、男らしさからは外れた姿で描かれています。
一方で主体はそんな弟に対して排除的な目線は持っていない。一首目は結句の「驚くよ、軽すぎて」にむしろ義弟をひからびさせた何か(特定の敵というよりは状況を想像します)に対する不満を持っているニュアンスがにじんでいます。二首目も結句でこちらに向かってくる義弟の姿が描かれており、主体がそれを迎え入れる構図です。
このように弱さを持った男性に対して、主体は排除しないどころか包み込むような態度でいるところが見て取れます。一首目の「折りたたむ」も、洗濯物のイメージがあるからか、ぞんざいに扱うのではなく丁寧にしまうような手つきを感じます。
以上が僕の感じた優しさと慈しみの部分です。

最近、「ケアの倫理」という概念についてつまみ食いしながら勉強しています。

ケアの倫理

その理念は、従来の倫理学が自立・自律した人間観に基づいて様々な理論を組み立てていたのに対し、人間は生まれたときは赤ん坊でいずれは老いていき人の手助けがいる時間の方がむしろ長いぐらいなのだから従来の人間観はとても特異な状態の話なのでは?という疑問点から発しています。
この自立・自律した=だれにも頼らない=弱みのない人間観は、さきほどの男性同士の付き合い方に共通しているというか、昔の倫理学者がほぼ男性しかいなかったのだから当たり前というか。
「男」という概念が弱さを含まないものとして考えるあまり、男性はしばしば自分やほかの男性の弱みを認めないことがある。それは当事者に発破をかけて本来以上の力を引き出すこともあるけれど、肉体的にも精神的にも相手や自分自身を危機的な状況にさらし得る(そして実際にさらしている)。一種の病的な気質のようなものだと僕は思っています。
ですので、弱い男性のことを、それも男性のあってもよい姿だと、男性自身が認めていくことの重要性を、僕個人の問題意識として持っていますし、他の男性にも共有してほしいと思っています。

話が脱線しましたが、僕が掲出歌で描かれた男性同士の関係になぜ高い関心を抱くかはわかってもらえたのではないでしょうか。上記のケアの倫理とか、実際の男性と「男らしさ」との乖離というテーマは、まだまだ一般に浸透していないテーマですし、したがって弱みを持った男性を受け入れる男性を描く作品は短歌に限らずまだまだ少ないです。

もう一点、親密になりすぎず尊重も感じられるという部分についても述べておきます。弱みを持ったものとそうでないものとの関係は、例えば典型的な母子関係として語られるような、片方がケアとしてまるっと片方を飲み込んでしまう関係に転じがちです。強い支配関係は、親と子のように明らかに片方に庇護が必要な場合はともかく、ある程度の能力を持った成人同士では不健全なものになりがちです(※) その点で掲出歌の主体のスタンスは、弟に対しての扱いこそ丁寧ですが、特別に彼を庇護するような強い欲求を表現するわけでもなく、一定の冷静さをもっています。守るというよりは見守るというか。このスタンスをとてもわかりやすく表現しているのが「義弟」という言葉になります。
「義弟」という言葉は、姻戚関係ではあるが間にワンクッション(妹)を挟んでいるため、他人といえば他人と言える程度の身近さを表します。これが単なる「弟」(=実弟と読まれることになる)では、特に一首目など全くニュアンスが変わってしまう。実の兄が弱った弟を丁寧に扱うのは、子供時代の兄弟の力関係の復活でしかなく、支配的な意味合いを帯びてしまいます。
あくまで相手は社会の構成員として対等な一人の人間だと、主体が認識している雰囲気が重要です。結婚可能な年齢であることが示唆されている点もこれに寄与しています。(結婚した男性を一人前とみなす価値観が主体にあるとすれば、この読み筋にじゃっかん寄与していると思いますが、断定は保留します)
ついでにいえば、「友達」ではまず男性同士というニュアンスがかなり薄くなりますし、「男友達」ならば似たようなことはできるかもしれないけれど冗長すぎるし、やはり「義弟」とは異なる意味を帯びてしまうでしょう。
「義弟」はやはり年下なわけで、主体よりは未熟な部分をまだ残したところがありそうなイメージを持たせます。それが男性でありつつ弱さを持っているという描写を、すんなりと受け入れさせてくれるところがあります。
※不健全な関係を描いても作品としては全然ありなのですが、掲出歌はそうではない良さがあるということで。

総じて、弱みは持っている男性だが対等な立場でもある男性という主体の認識を、絶妙なバランスで表してくれる言葉として「義弟」は効果を発揮しています。その義弟に対する受容とケアを描くまでも含めて、掲出歌はとても意義深いと思います。

歌会で聞いたところ、土井さんが「義弟」という言葉を使ったのは初めてではないかということでした。こういったあまり用例のない言葉を生かすのは難しいのですが、最初からこれだけできるのなら、今後もっと作ってさらに深めてほしいなと思いました。

僕もマネしていきたいところですが、作者の資質というのがあるので、たぶん同じようにはできないんだろうな~。


「かばん歌会とひからびた義弟たちへ」

~~~追記

「義弟」は妹の夫以外に、連れ子同士で親が再婚する場合も指し得ることに気づきました。読み筋に大きな影響はそこまでないんじゃないかと思いますが、考慮が足りなかったですね。

~~~さらに追記

読者の方から妻の弟パターンもあるのでは?とご指摘いただきました。頭からすっかり抜けてました。すみません。
この場合は、妹の夫パターンとそんなに解釈の差は出ないのではと思います。

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