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あなたには(靴下などの干し方に)愛が足らぬと妻はときに言ふ【大松達知】

あなたには(靴下などの干し方に)愛が足らぬと妻はときに言ふ
 大松達知

僕の場合、妻のシャツを洗濯ばさみにはさんで干したら、ハンガーを使うようにやんわり注意されたことがあります。

掲出歌はあたたかいユーモアが魅力です。
「あなたには愛が足らぬ」この発言だけならばすわ夫婦の一大事?ですが、()の内容を補えば実にささいな日常の一コマである。そのギャップが笑いを誘います。
加えて「妻に叱られる(攻められる、ひどい扱いをうける)夫」を夫自身が描くのも、よく用いられる自虐ネタのパターンです。サラリーマン川柳だけではなく、ローマ時代の演劇でもあったとかなんとか(うろ覚え) 「妻は夫に従うもの」という価値観が浸透している社会では、「妻より弱い夫」は滑稽のネタになるわけです。自虐ネタもあまりやりすぎると卑屈な感じがしてしまいますが、掲出歌はさほど自虐感も強くなく、何より()を使ったレトリックの巧さが前に立っているため嫌な感じはしません。

それにしても「愛」ってなんでしょうね。靴下の干し方に愛が足りないと言われれば、靴下を丁寧に優しく扱えばいいと理解できますが。()を抜いたときの「愛が足りぬ」は、かなり重い問いかけであるにもかかわらず、人によって千差万別。この妻にとっての「愛」とは何なのか、わが身のことのように考えてしまいます。

ところで、レトリックに目を奪われて見逃しそうになりますが、掲出歌にはもう一つ技ありの部分があります。それが「靴下など」のくだり。
洗濯物の品目を挙げてみましょう。靴下以外では、シャツ、パンツ、ブラジャー、上着とかズボンあたりが浮かびます。
「愛が足らぬ」と言う重大な問いかけと、日常の一コマとのギャップだけを狙うのであれば、ここは靴下でなくともいいはずです。
本当にそうなのか、改悪例を作って考えてみましょう。

改悪1:あなたには(ブラジャーなどの干し方に)愛が足らぬと妻はときに言ふ
改悪2:あなたには(Tシャツなどの干し方に)愛が足らぬと妻はときに言ふ


改悪1では性的なニュアンスが出すぎてしまう。「愛」の意味が性愛に近いものに感じられ、()のない場合とある場合とでギャップが大してなくなってしまいます。ユーモアとしていまいちです。パンツでも同様。
改悪2では、ギャップの笑いは原作と同じように出せていなくもないのですが、掲出歌と比べたとき、何か物足りない気がします。上着、ズボンでも同様。
逆に言えば、この物足りなさは「靴下など」によって単なるユーモア以上のものが掲出歌に足されていることを示唆してくれます。

僕は昔から人にマッサージをするのが好きで(肉を揉む感触が好きなんだと思います)、子供のころは親戚の大人にやってあげてWin-Winの関係だったのですが、大人になるとチャンスがなくて(誰も触らせてくれない) 今は結婚したおかげで妻に好き放題マッサージしています。
そして、なぜか足をマッサージをしているときにもっとも嬉しくなります。足は、頭からもっとも遠い体の端っこです。そこをケアしていると、妻の体全体をケアしているかのような気持ちになれる。足先に与えた刺激が妻の頭まで、全身をくまなく伝わっていく感覚があるんです。これは腕や腰ではない感覚です。

掲出歌は靴下「など」と書くことで、他の洗濯物の存在を暗に示しています。妻の全身分の洗濯物を干していった、その終着点として「靴下」が登場しているようです。
妻のすべてを愛していることを証明するためには、靴下まで丁寧に干す必要があるのかもしれない。いやむしろ、靴下をこそ丁寧に干さなければいけないのではないか。「つま先まで愛して」みたいな物言いもありますし。

日常のささいな一コマと思われた(靴下などの干し方に)こそが、妻の求める「愛」が何なのかに答える手がかりになっているわけです。
単なるギャップの笑いのように見えて、そのユーモア自体は損なわず、遠回しに「愛」について説得力のあるやり取りを描くことにも成功しているのがこの歌です。










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