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14歳の"特別"だった自分と何者にもなれない自分



「このバンドなんて名前?すっごい良いんだけど」


中2の夏休みに入る少し前、前の席のクラスメイトが聴いていたミュージックプレイヤーから伸びるイヤホン。
片耳から聴こえてくるいかにもロックバンドといった感じのサウンドと、少し気だるそうな歌声を聴いて一気に引き込まれてしまった。
それがわたしとBUMP OF CHICKINの出会いだった。


とにかくすぐに聴いてみたいと思ったわたしは、友人にCDを貸してくれと懇願し、次の日には全てのアルバムを貸してもらっていた。
ボーカルとギター、ベース、ドラムでシンプルに構成されたバンド。
ボーカルは当時、お世辞にもすごく歌唱力があるというわけではなかった。
しかし、どこか人を惹きつけるような声色と、独特の曲名と噛みごたえのある歌詞に、どっぷりハマるのにそう時間はかからなかった。


そこからの毎日は、まさに「BUMP漬け」といった日々だった。
お小遣いを少しづつ貯めて、アルバムの発売日にはタワーレコードに走った。
高校生になって初めて買ってもらったiPodに一つ一つ落として、通学路の田舎道を、「車輪の唄」を聴きながら走った。寝る前には「睡眠時間」を毎日聴いていた。


仲良くしていたグループ内で対立して、孤独だと感じたときは、「ハンマーソングと痛みの塔」を聴き、自分と重ねて悲劇のヒロインみたいに思っていた。仲直りできた時はまさに同じエンドだ、と物語を生きた気になっていた。


中でも「隠しトラック」は秀逸だった。
早送りをしていって曲が始まるところを見つけては歓喜していた。隠しトラックの歌詞を見るために、何度もCDのケースを割りそうになった。


当時のBUMP OF CHICKINのもう一つの魅力は、メディア露出が少なかったことだ。

今にして思えば、バンドはメディアに出ないのがロックでカッコいい!という固定概念が抜けていなかったのかもしれない。
しかし、テレビにも全く出ていなかったものだから、朝の情報番組にチラッとでもでた日にはテレビにかじりつくように観ていた。

ラジオなどで見せてくれる幼馴染特有のわちゃわちゃとした雰囲気を垣間見るたび、「この素顔は限られた人しか知らない。わたしは選ばれた特別なファンなんだ!」とさえ思わせた。


* * *


それから時間は流れて大学進学、卒業、それから就職と順調に人生を進めていった。
好きなバンドは好きなままだった。
でもいつからか、大好きなバンドが自分のことを歌ってくれなくなったと感じるようになった
これまで何をするにもぴったり寄り添ってくれていたのに、少しずつわたし自身から離れていってしまうのが明確にわかってしまったのだ。


そこからBUMPはメディアに沢山ではじめた。
インスタグラムを始めたり、世間で知らない人はそうそういないのではないか、というくらいの快進撃だった。
一方わたしは、新入社員で入った会社で、毎日あくせく働いていた。
学生時代からは考えられないほど周りに気を使い、客先にはペコペコ頭を下げ、生活すらままならないといった感じだった。

毎日失敗連続で怒られ、思い描いていた理想の生活と、今の自分の生活との溝が少しずつ開いていった

音楽番組に出演するようになった画面の中の彼らを見て、一方的に知っていただけなのに、なんだか好きだったバンドとの距離がどんどん開いていった気がした。
わたしはもう、あの頃みたいな「選ばれた特別なファン」ではないのだな。ベッドに寝転び、天井のライトをぼんやりと眺めながら思った。


数年経ち、仕事も軌道に乗るといったほどではないが、社会人としての振る舞いや、時間の使い方も身についてきた。
以前と比べると、生活するので精一杯という感じではなく、習い事をしたり料理をしたり、心に余裕を持って暮らせているほどになった。
それでも、思い描いた未来を生きているという実感はあまりなかった。

そんな中、あるCMを見た。カップヌードルのCMだった。

色々な映像作品とコラボしており、興味を持ってみていると、そこから聴き覚えのある、懐かしい歌声がきこえてきた。

わたしはそこで今まで自分が錯覚していたことに気づいた。
何年かぶりに聴いたBUMP OF CHICKINは、ちゃんと自分のことを歌ってくれていた。



想像じゃない未来に立って 
僕だけの昨日が積み重なっても 
その昨日の下の 変わらない景色の中から 
ここまで繋がっている
迷子のままでも大丈夫 
僕らはどこへでもいけると思う
君は笑っていた 僕だってそうだった 
終わる魔法の外に向けて

「記念撮影」より


思い描いていた現在をずっと生き続けている人なんて稀だろう。
人生において成功のショートカットを知っているなら教えてもらいたい様な気がするけれど、ちょっとした人生の幸福は周り道にこそある。
ありきたりだけど、いつも通らない道で美味しいパン屋さんをみつけた、とかそういうことで良い。
そういう今日が積み重なって自分なりの人生を歩んでいける。だから「迷子のままでいい」し「僕らはどこにでもいける」のだ。



あの頃確かにわたしは特別だと思っていたかった。
今もそうかもしれない。
そういう感情は捨てる必要はないとは思うし、捨てたくないとも思う。
同時に、特別じゃない、取るに足りない自分も愛おしいと思う。
「特別な自分」と「何者にもなれない自分」どちらも抱きしめていたい。


振り返れば特別だった14歳の自分、その姿を確かめながら今日も何者でもない自分の人生を歩んでいく。



* * *

エッセイというものを書いてみたかったのと、久々に好きなアーティストの夢をみたのでそれについて書いてみました。書くなら今の自分自身を肯定できる様な内容にしたいなと思いました。
好きなアーティストが有名になっていく、嬉しくて少し寂しい気持ちを書いてみたかったというのもありました。みなさんの青春に置き換えて、懐かしい気持ちになって貰えたら幸いです。
わたしの経験をもとにはしていますが、フィクションなので生あたたか〜い目で見てください。

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