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首里城の下に在る

24万人もの人が殺され、住民の4人に1人が命を奪われた沖縄戦。あれから75年経った今も沖縄では、ほぼ毎日のようにどこかで不発弾処理が行われ、完全に不発弾が処理されるのに、あと70年かかると言われている。沖縄に降った鉄の雨は、畳1枚に1つの計算になるそうだ。

そんな沖縄戦を生き抜いたおじいちゃん・おばあちゃんから命をつなげてもらった君たちはまさに「奇跡の存在」なんだよと沖縄の若者たちに伝えたくて、今から10年前・戦後65年の年に私は「ニイナとオジィの戦世」(ラジオドラマ&舞台)を書いた。

ドラマを描くにあたり、戦争について体験者から直接証言を聞かなければ!と思い立ったが、どこにどうアクセスしたらいいのかわからずにいたまさにその時、たまたま見ていたFacebookに、友人が首里高の前身である一中健児の塔のことを投稿していた。なんだ近所にあったんだ!と、次の瞬間、私は養秀会館へと向かっていた。

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<養秀会館 解説員 岸本政一さん>

行ってビックリだ!なんと、この日は全ての元女子学徒・鉄血勤皇隊の方々の集まりの日だったのだ!

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天の計らいか、やるべきことはトントン拍子で進む。すぐに体験者の証言を直接伺うチャンスを得た。元一中生で通信兵だった宮平盛彦さんと鉄血勤皇隊の神谷依信さん、そしてずいせん女子学徒隊の方々からも直接体験を伺うことができたのだ。

ああ、インタビューの際の写真を掲載できないのが残念だ。10年前はスマホはなかった。デジカメはあったが、そのデータが見られるPCはとっくに壊れてしまった。

一中とは首里高校の前身で、ずいせんとは首里高等女学校(今の染色デザイン科)の方々の証言と、首里城のすぐ下にあった沖縄師範学校出身の大田昌秀元知事の戦争体験をベースに、これまであまり伝えられてこなかった男子学徒兵「鉄血勤皇隊」の物語を2ヶ月かけて書いた。書いている間は沖縄戦関連書籍とアメリカ軍が残した写真、映像を来る日も来る日も見続け、どっぷりと沖縄戦の中に身を置き、毎日、疑似体験していた。だから恐怖で眠れない、号泣しっぱなし。物語に登場する鉄血勤皇隊の学徒兵はもちろん、沖縄の人々をスパイ扱いする日本兵、集団死を選ぶ住民など、戦争に巻き込まれたそれぞれの立場の人々の感情をセリフを書きながら味わった。

もしも私がウチナーンチュだったら、この物語は最後まで書けていなかっただろう。私はずっと沖縄に生まれたくて生まれられなかったことを悔やんでいたが笑、この物語を描き切った時、わかったのだ。これを描くために、私はヤマトに生まれたんだと。

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話を軌道修正して、

宮平さんの証言をお伝えしたい。

宮平さんは14歳で徴兵された。母親は心配して「何もこんなに小さい子まで軍隊に行かなくても」と、しきりに止めたが、「いや戦争はすぐに終わって帰れるから」と母親の心配をよそに入隊。4月下旬、首里への爆撃が激しくなり始めた頃、お母さんとお姉さんが一目会いたいと宮平さんを探して首里にやってきた時、偶然、壕の中で再会。神様が用意してくれた再会に母親は涙を流すばかりだった。しかし、この奇跡の再会が最期の別れとなってしまった。

宮平さんが語ってくれたお母さん・お姉さんとの死別は「ニイナとオジィの戦世」の中でこんなふうに描いた。

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軍の伝令を伝えるため、壕から壕を転々としている主人公・亀吉が、ある壕の中へ入ると、おばちゃんたちから口々に、「あい、亀吉くん、大変だったねぇ」「気を落とさんでね」と声をかけられる。亀吉は何のことかわからず「何があったんですか?」。すると、おばさんは気まずそうに「あんたのお母さんと姉さんよ…」。亀吉「母ちゃんとねーねーが?」「空襲…。首里グシクが三日三晩燃えた日に亡くなった」。亀吉「あの空襲で?てっきり国頭へ疎開したとばかり…。ちくしょう!俺が、戦争は2週間で終わるって言ったばっかりに!」(インタビューでわかったことだが、当時、学生たちの間で「戦争は2週間で終わる」という根拠なきうわさがあった。)

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戦火に焼かれる首里城を見て、当時の人々はどんな想いだっただろうか?

当時の再現ではないが、戦後75年という節目の年に首里城は燃えてしまって、ない。私たちは沖縄戦を追体験させられているように思えてならない。(実際の沖縄戦はこんなものではすまなかったが)

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首里城の焼け跡に残ったこの1本の木を見たとき、ハッとした。

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この木、知っている!と。

「ニイナとオジィの戦世」のチラシの中に登場する沖縄戦の写真の木と同じじゃないか!これ。

首里城はこのことを伝えたくて燃えたのだとはっきりわかった。(何言ってんだと怒る人もいると思いますが。)

このこととは首里城の下に葬り去られた戦争遺跡。

首里城が燃えたことで、再び戦争遺跡に光があたった。

首里城の下にある第32軍司令部壕をこのまま葬り去ってはならないと。

負の世界遺産として、世界中の人々に伝える時がきたのだ。沖縄から平和を、世界中に届けるために、首里城は自ら燃えたように思えてならない。







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