No.1130 問われているもの
戦前の「修身」は、1958年(昭和33年)に学校教育の場で「道徳」としてスタートしたそうです。長く「教科外活動」として行われてきましたが「特別の教科」として「道徳」授業が再スタートされたのは、小学校で2018年(平成30年)度、中学校で2019年(平成31年・令和元年)度からのことです。
第1次AB政権は、既に2006年(平成18年)に布石を打ち、教育基本法の改正や愛国心教育を盛りこみ、「道徳の教科化」を打ち出していたようです。しかし、心の中を評価することは教科になじまないという反対が多く、教科化は見送られたといいます。
ところが、第2次AB政権で、大津市の「いじめ自殺」問題を取り上げ、道徳教育の必要性を訴え、2014年(平成26年)10月に「特別の教科 道徳」として正式教科にするべきとして、翌2015年3月の学習指導要領改定を経て、正式に教科扱いとなりました。
表向きは「いじめ対策」としながらも、その実は「愛国心教育」を重視し、「日本人としてのアイデンティティをしっかりと確立していくことも大切」とAB氏は発言しています。
そもそも、「道徳」は、教科として教えられる性格のものなのでしょうか?それは政府の国家観・教育観により変わるものであり、倫理観から外れることもあるからです。
それが証拠に、AB政権の功罪は両方あると思いますが、在職中からのいろんな疑惑がとどまるところを知りません。没後の今でさえ、派閥による裏金工作の領袖として、その浮き名を流していることは、政治家の言葉を借りれば「ご案内のとおり」です。
「道徳」を作ったご本人、作った党が、自ら不徳や不正を行って、バレなければ良しとする精神、バレたから改めて信頼を回復したいとする厚顔さに、子どもたちは失望こそすれ、尊敬のまなざしを向けることはないのではないかと思います。道徳を学ぶべきは、誰?
「道徳」は、「どう解く」(考える)であり「どう説く」(書く)であり「do talk」(話す)でもあります。「考え、正しく分析したものを、どう自分の言葉で語るか」ではないかと私などは考えます。人間が暮らす中で迷い、悩み、苦しみ、喜び、悲しみながらも、いかによく生きるべきかを問われ続けるものが「道徳」であり、その意味で、教科としてだけではなじみにくいものではないかと思ったりもします。
道徳の大本は、様々な経験値があり様々な異なった考えや意見を持つ家庭や社会や地域の大人たちが協力し、束になって子供たちに多角的なアドバイスをし、子どもたちはその中から考えながら正しさを身につけ成長してゆくことにあると思います。
現代は、地域の大人とのつながりが希薄となっており、また、他人が口をはさむことに否定的な親御さんも少なくありません。「道徳」が、学校教育にゆだねられる理由がわからないでもありません。
しかし、人の繋がっていない「道徳」は、単なる押し付け、まがまがしい権力の行使と言われかねないように思います。子供の道徳心が養われるために私たち大人の生き方、地域・社会の在り方も問われているように思います。
※画像は、クリエイター・HirOさんの1葉をかたじけなくしました。
「オーストラリアのどこかの湖で撮った1枚。大空に浮かぶ雲が湖に見事に映しだされる。自然の偉大さを感じざるを得ない。」
と説明がありました。心が浄化されるような風景です。お礼申し上げます。