見出し画像

No.1166 節度ある盲目

俳優の沼田曜一(1924年~2006年)さんが、大分芸術会館で「民話の世界」と題して魅力的なお話をしてくれたのは、氏が76歳のときのことでした。
 
沼田さんのお話は、「語り部」と呼ばれるに相応しく、身も心も魂が乗り移ったのではなかろうかと思うような迫真の表現力、絶妙な間、しびれるような太い声です。いくつかのお話の中に「餅を握りしめて走る女」がありました。こんな内容でした。

 一人のいとしげな娘があるとき、山を五つ越した先の村の祭りに招かれ、そこで一人の若者と知り合う。だが、祭りが終わってみればもう会うこともない。娘はぼんやりと山を見つめて思う。あの山さえなかったら、あの山さえなかったら……
 そんなある夜、一つの火が山を越えていくのを見た娘は、あっと思う。そうだ、山を越えて会いに行けばいい。その夜、こっそり家を抜け出した娘は山道を走る。一つ、二つ…娘の足で山を越えるのは容易ではないから、胸ははりさけそうに苦しく、膝はふるえ、足はもつれた。それでも娘は火のような息をはきながら、会いたい一心で山を五つ越え、若者の家にたどり着く。山を五つも越えて来たことに驚く若者の前に両手をさしのべて、パッと開いてみせると、そこにはつきたての餅が一つずつのっていた。
 それから、娘は毎晩、山を五つ越えて若者を訪ねる。そして、その手にはかならずつきたての餅が握られていた。
 だが、毎晩山を五つも越えてくるなんて魔性のものに違いないと思い始めた若者は、次第に娘のことが恐ろしくなり、それは厭わしさに変わる。そして、とうとうある夜、待ち伏せをして、娘を崖から下に突き落としてしまう。哀れな娘の血がしたたったのか、やがてそのあたりにはまっ赤なつつじの花が咲き乱れるようになった。

「カフェと本なしでは一日もいられない」2007年9月7日の記事による

今でいうなら、女はストーカーまがいの行為行動です。初めこそ心憎からず女を思っていた若者でしたが、毎晩、山を五つも超えてやってくる女に人間以上の魔性を感じてしまいます。そして恐れをなしてしまうのです。そんな男に、女はこう訴えます。

「おまえに あいたい いっしんで、わたしは 山を こえて くるだけなのに……。家を でるとき、もちごめを ひとにぎりずつ にぎって、おまえに 会いたい、ただそれだけで 山を こえ、山を こえて はしりつづけるうちに、いつの間にか、手のひらの こめは、もちになっているのです」

「カフェと本なしでは一日もいられない」2007年9月7日の記事による

しかし、その女に人間を見出せなくなっていた男は、恐れ以外の感情を持つことは出来なくなります。愛しい男に会いたい一心だった女の情念のすごまじさが、却って男をビビらせ、震え上がらせました。そして、ハッピーエンドどころか、悲しい結末を迎えました。
 
この民話は、何を伝えたかったのでしょう?手に握りしめたもち米が餅になるという思いの深さとその時間の長さは、女にとって幸せに向かう道行きの時間だったように思えます。一方的に好かれた男にとっては、重すぎる女の気持ちが、ありがた迷惑だったのでしょうか?「気持ち」という「餅」を二人が美味しく食べられるようになるために、大事なことをこの民話は伝えようとしているように思いました。

赤いつつじは、男を愛する女の流した血の象徴のように語られていますが、その花言葉は「燃え上がる想い」や「恋の喜び」だそうです。また、つつじの花言葉は「節度」「慎み」でもあると知りました。
 
情熱的で一途な女性の偽らざる愛は、まさに「燃え上がる想い」や「恋の喜び」だったと思います。しかし、彼女に、もう一方で「節度」や「慎み」があれば、男に誤解されたり疎まれたりすることもなかったのではないかとも思うのです。
 
民話は黙して語りませんが、一見矛盾するような「節度ある盲目」についても勧めているのかも知れません。


※画像は、クリエイター・スナフさんの「つつじ」の1葉をかたじけなくしました。赤いつつじを見るたびに、悲しい女の民話を思い出し、祈りたくなる思いに駆られるのです。お礼申し上げます。