見出し画像

No.1068 柿喰ふ人

ある意味、お手本のような文章であります。
「我が家の姉もそろそろ色づいてきました」
 
伝えたかったのは、どっちだったの意味でしょう?どっちにしても、
「我が家の柿も次第に色づいてきました」でしょっ!
「我が家の姉も幾分色気づいて来ました」でしょっ!
と思わずツッコミを入れたくなるのは、一言多い年寄りの、要らん世話だからでしょうか?

柿という言葉が初めて日本の文献に登場するのは、平安時代初期(815年)、嵯峨天皇の名により編纂された「新撰姓氏録」だそうです。その中に、敏達天皇の代、家門に柿の木があったことから「柿本」の姓が起こったことが記されており、平安時代には食用に数多くの柿が栽培されていたようです。 

「柿千」秘境天川の銘産 柿の葉すし ロゴマークの由来より

とありました。第三十代敏達天皇(538年?~585年?)の時に、門の傍に大きな柿の木があったので、臣下に柿本の姓を与えたというお話です。その話が事実なら、6世紀半ばには柿が存在したということになります。飛鳥時代以前の古墳時代からの果物だったということでしょうか。

夏目漱石の『三四郎』(一)の中に、東京駅で別れるまで名前を明かさなかった髭の男が、三四郎にこんなことを語る場面があります。

次にその男がこんなことを言いだした。子規は果物がたいへん好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食ったことがある。それでなんともなかった。自分などはとても子規のまねはできない。――三四郎は笑って聞いていた。

青空文庫『三四郎』一より

生涯に俳句を25,000句も作ったと言われる正岡子規(1867年~1902年)は、実際、無類の柿好きだったと言われています。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
の初出は、1895年(明治28年)11月8日の「海南新聞」(現、愛媛新聞)の掲載です。
 
尤も、この歌を詠んだのは同年10月26日のこと。奈良の宿で夕食後、名物の御所柿を頼んだら、女中さんが山盛りにして持ってきて、皮までむいてくれたそうです。食べていると寺の鐘が鳴った。「どこの鐘か」と聞くと「東大寺の大釣鐘だ」とこたえたことが、子規の随筆「くだもの」にあるのだとか。東大寺にしないで、法隆寺としたところに28歳の俳人・子規の算術をみます。
 
ところで、子規がこの句を発表する2ヵ月前の1895年(明治28年)9月6日、同じ「海南新聞」に漱石の句が掲載されていたこともよく知られています。
「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」
句の世界観が異なると言えば言えなくもありませんが、漱石の先行作品と無縁に詠まれたとは言いにくいほど「柿食へば」の語調は、近いものを感じます。その影響なしとしないように思われます。ただし漱石の句は「銀杏散るなり」とありますから、1895年9月の作ではないのかもしれません。

「柿食へば」の2年後の1897年(明治30年)に「我死にし後は」と前書して
「柿喰ヒの俳句好みと伝ふべし」
と詠んだと言われます。自他ともに認める「柿よく食う人」?生前葬のような句です。

その5年後の1902年(明治35年)9月18日の絶筆三句が次の作品でした。
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「をとヽひのへちまの水も取らざりき」
「柿大好きっ子」の正岡子規は、僅か34歳の若さでその生涯を閉じました。
 
子ども時代に
「枝がすぐ折るるき、気いつけえよ!」
爺ちゃんから教えられる前に、ポキンと音して落下した経験のある私です。


※画像は、クリエイター・peach-chanさんの、美味そうな「柿」の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。