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No.259 ああ、かんちがい!?

 もう2週間も前の8月7日が、「立秋」でした。
 立秋と言うと、毎年思い出してしまうのが、ある掛け軸のお話です。
 「夕有風立秋」
「夕べに有り、立秋の風」または「夕べに立秋の風有り」とでも読むのでしょうか?いいずれにしても、「残暑はなお厳しいけれど、夕方になると微かに秋風の便りを感じる」という句でしょうか。秋らしい佇まいとまでは言えないにせよ、読後感の心の中の涼やかさに癒されるような五言なのですが、私は大きな勘違いをしていたことを知らされます。

 「ある風流人のところに、暑さの中を訪れた客が、茶室に通され、汗をぬぐいながら、ふと床の間の掛け字に目をやると『夕有風立秋』と書いてある。『良い句ですな。夕方ごろ吹く風に秋の気配を感じる。というのは今ごろにピタリですよ』とお世辞半分にほめると、主人は微笑して、『いやあ、これはユーアルフーリッシュと詠んで、おバカさんね、ということなんです』と答えた。」(金田一春彦『ことばの歳時記』新潮文庫)

 「夕有風立秋」が「You are foolish! 」だったなんて、信じられナーイ!  それにしても、どこのどなたのお邸に伺えば、こんな掛け軸を拝見できるのでしょうか?お邪魔させて頂きたい心持ちです。軸を前にその言葉の世界や風情に感嘆している客人を見て、茶の湯の亭主はニヤニヤしているんでしょうね。「それが風流人のやり方かぁ!」と思ったりしちゃったりして。

 この金田一晴彦『ことばの歳時記』(新潮文庫)は、1973年(昭和48年)の出版です。それから41年後の2014年(平成26年)10月28日の読売新聞朝刊「編集手帳」にこの話が取り上げられており、永田町の人々に皮肉な提言をしています。奇しくも、その同年の1カ月ほど前の9月19日、私は「編集手帳」のコラムニストだった竹内正明氏から自筆のお葉書を頂戴したことがあります。
 「冠省
  此度は貴重な新聞コラム集をありがとうございます。
  秋の夜長、楽しみに詠ませて頂きます。
  今後ともご愛顧を賜りますれば幸いです。
  取り急ぎ御礼迄 早々」

 片田舎の、どこの馬の骨とも分からぬ者から一方的に送り付けられたコラムの小冊子に対して、わざわざペンを執って労いの言葉をかけて下さったことに猛烈に感動しました。それは、かつて、毎夜TVの「多事争論」のコーナーで舌鋒鋭く「異論反論オブジェクション」を述べていたジャーナリスト氏から頂戴した、コピー機で印刷された、誰にも同じ文面の礼状の葉書とは大違いでした。私は、そこに人の心を観ました。

 さて、先の風流人に勝るとも劣らぬユーモア人と言ったら、私ならすぐに内田百閒(ひゃっけん、もとは「百間」だとか)をあげます。
 蜀山人こと大田南畝(1749年~1823年)は、客の来訪が煩わしかったと見えて、こんな狂歌を詠んで愉しんでいます。
 「世の中に 人の来るこそうるさけれ とはいふものの お前ではなし」
それを余程気に入ったのか、人が次々と家にやって来て、ちっとも落ち着かない内田百閒(1889年~1971年)は、こう詠んだそうです。
 「世の中に 人の来るこそうれしけれ とはいふものの お前ではなし」
しかも、ご丁寧に蜀山人の歌と自分の歌を並べて玄関に貼り紙してあったと言います。「うるさけれ」の人物が「とはいふものの お前ではなし」と言われてホッと胸をなでおろしたのに、次の歌では、「うれしけれ」の人物が「とはいふものの お前ではなし」と言われ、持ち上げられたかと思えば突き落とされるという具合です。そう詠んで客の反応を楽しんでいるのです。

 この内田百閒という人物が、実に多くの教え子や知人に慕われたことは、映画「まあだだよ」にもよく表れていますし、この歌のことも紹介されていたと記憶しています。知的で、一途で、話好きで、酒飲みで、子供のようで、へそ曲がりで、猫好きで、頑固な男、そんな百閒に会いたくてやって来る人たちをへこませ、笑わせ、更に株を上げるのです。
 彼の家の床の間に「夕有風立秋」があったら、つきづきしかろうと…。

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