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No.538 追い求める「真理と自由」

「久松さん!久松潜一さーん!」
館内に響いた呼び出しのアナウンスに、私は思わず顔を上げました。国立国会図書館の受付カウンターに向かい、女性から腕を支えられながら歩いて行ったのは、見まがうことなき「国文学界の泰斗」と評される久松潜一先生でした。私が大学4年生の1945年(昭和50年)の事だったと思います。
 
久松先生の研究分野は大変幅広く、上代・中古・中世にわたっており、実証的国文学研究の確立に大きく貢献したと言われます。『日本文学評論史』『和歌史』など、我が書架にもありますが、日本文学史全体を俯瞰し、その流れや精神について生涯をかけて研究し多くの業績を世に送り出しました。私は、頑健なブルドーザのようにガガガッと日本の文学全体を掘り起こし、後の世の研究者たちに数多くの作品や研究方法などを示してくれた人物だと思います。すでに80歳になったか、なろうとしていた頃だと思います。その第1級の研究者が、今もこうして自ら図書館に足を運んで調べようとする真摯な態度や向学心に圧倒されました。
 
国立国会図書館の受付である図書貸借カウンターの上部には、ギリシャ語で
「真理がわれらを自由にする」
「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ」 
と刻まれています。「ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース」と読むらしいのですが、私には、へーボタン乱打の言葉です。久松先生ご自身も、研究を進める中で不明を見出し、文献を博捜して真実を明らかにしようとされたのでしょう。不明や疑問や難問にとらわれる心から自由になるために…。
 
1961年(昭和36年)に開館した国立国会図書館東京本館は、そのように「真理がわれらを自由にする」の理念の下に開館されたそうです。この句は『新約聖書』(ヨハネによる福音書 8-32)に由来しているそうです。その意味で、「真理と自由」とはイエスの教えに従うことによって知るという人間存在の根幹にかかわる真理であり、神を知った者は自由になれるという意味なのだというキリスト教の説明にも傾聴したくなります。
 
ただ、図書館は、個人では容易に手に入れがたい知の集積です。様々な国や宗派や言語や政治や文化や生活の異なった所の産物である書籍や文献からの学びが可能になります。それらは、研究や教養や娯楽を求める人々の好奇心を満たし、謎や疑問や悩みや苦しみから解き放ってくれる力になる事を期待できるのであり、そのような使命として建てられたものだと思います。
 
一方で、見方を変えれば、図書館に限らず、学校も施設も会社も、それが人間を取り巻く場なら「真理と自由」を追い求める所であり得るのかも知れません。それぞれの身を置く場から、損得勘定だけではない「真理を追い求め、自由をつかみ取る」社会の創造ができると良いなと思います。
 
被用人と使用人、個と社会とは、対立し合わなければならないものなのでしょうか?共に同じ方向を見つめながら「真理と自由」を追い求め、人々や社会や国に貢献する関係となることは、難しい事なのでしょうか?もちろん、ここにいう「自由」が、自分第一主義の束縛無き勝手気ままな状態を言うのでないことは、言うまでもありませんが。