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No.1261  公園から厚縁へ

日曜日の午後、団地内を散歩しました。すでに40年近くが経ちました。団地のはずれに公園があり、夏は、セミの大合唱で「耳鳴り」がかき消されるほどです。しかし、今は、子どもたちの姿も声もあまり見聞くことが出来なくなりました。

そういえば、数年前に「公園」の設置理由や目的について端的に述べた「天声人語」の記事がありました。私にはとても新鮮で、また驚かされる内容でした。

7歳と5歳の子どもが父親と公園にいると、警察官に職務質問された…。本紙の「声」欄に先日そんな投稿が載った。「自粛中に遊んでいる」との通報があったという。この春、公園の光景が各地で一変した▼そもそも公園は何のためにあるのか。近代史を調べて驚いた。明治時代、政府が初めて公園を造ったのは主に防疫のためだった。コレラの伝染は空気中の湿って汚れた「瘴気」によるものと考えられ、土地を乾かすには空間を開放するのが良策とされた▼「公園は都市の肺である」。伝染病に苦しんだ欧州で唱えられた説が、維新後の日本にもたらされる。「公園は腐を転じて鮮となす」「精神の洗濯場、空気の転換場であれ」。文豪幸田露伴も著書で熱く訴えた▼なお多くの人々が巣ごもり生活を送る都市部では、公園は数少ない憩いの場である。とりわけ子どもたちには貴重な居場所だ。「立ち入り禁止」のテープが巻かれた遊具は、見るたび悲しい。こぞって使用禁止とされたのは自治体の横並びのゆえか▼「批判を恐れた行政が過激に反応した結果かもしれません」と話すのは立教大の小野良平教授(57)。公園の歴史や設計に詳しい。「そもそも公園はゆとりの場。だれもがふらりと立ち寄って、ボーッとできる空間であってほしい」▼行く先として公園しか浮かばないのに、行くのがはばかられる。百五十年前に「都市の肺」として生まれた場所で、深呼吸も自由にできないのは、皮肉な話であろう。
(「天声人語」令和2年 2020年5月21日)
 
今から4年前、世界中にコロナが伝染し、多くの人々の尊い命が奪われました。厚生労働省検疫所FORTHによれば、
「WHOに報告されている全世界の累積感染者数は2億4,629万7,757人、累積死亡者数は499万4,113人となりました。」
と報告されていました。21世紀にあっても、これほど甚大な被害が出るほど、伝染病の猛威は底知れぬ力と恐ろしさをはらんでいます。
 
我が団地の公園には、砂場が残っているだけで、今は遊具がありません。最近、トイレが新設され、使ってくれる人々を待っているのですが、子ども達の数は少ないのです。
 
それならば、団地に多くなってきた老人たちが、公園を活用してはいかがかと思います。去年の夏だったか、小学生数人を取り囲むように公園でラジオ体操をしている親御さんやお年寄りたちの姿を見ました。そんな光景は初めてでしたが、早朝なのでさわやかな気分にもなれるし、身体もリフレッシュされるではないかと思いました。
 
グランドゴルフやゲートボールができるほど広い公園ではありません。しかし、公園内の散歩なら車をよける心配は要りませんし話し相手も出来ます。

春には公園内の桜が開花し、ご近所さんを誘って「花見」も出来ます。そのうちにベンチで囲碁・将棋を始める人や、野点を始めて下さる奇特な方もおいでになるかも知れません。老人は、もちろん私も含めてのことですが、努めて外の空気を吸いたいものです。
 
「公園」が「恒遠」という存在ではなく、「好宴」にも「交演」にもなる「行園」として「厚縁」を生み出す場所になれるといいなと考えています。


※画像は、クリエイター・おむふみこさんの、タイトル「リ…ス…?」の1葉をかたじけなくしました。「とある団地の中の公園にいました。」との解説付きでした。お礼申します。