見出し画像

No.795 師は凄し その師も凄し 春隣り

噛めば噛むほど味が出るのがスルメなら、読めば読むほどゆかしく思われる人物が種友明先生です。私は一度も会ったことも教わったこともない他大学の先生でしたが、そのコラムを読むにつけ、「先生」が一番相応しい呼び方だということを思い知るのです。
 
今日は、種先生が1988年(昭和63年)6月29日に大分合同新聞「灯」欄に寄稿したコラム「一つの人生」をご紹介させていただきたいと思います。
 
 「『わあ、すげえ!おれたちの組が学校一番だ』掘り出される薩摩芋の出来の見事さに、二年一組の男子生徒は一様に興奮していた。昭和十八年の秋、群馬県小野上国民学校初等科十二学級の開墾畑で、確かに出来栄えは群を抜いていた。誰もが担任を誇らしく思った。その人の名は飯塚彦治先生。農林学校を出て間もない青年教師だった。村の大きな旧家の長男で、土地っ子は皆知っていた。いつもりりしい笑顔を絶やさず、見事なほどに生徒たちに公平な教師だった。熱意と誠実さが子供たちの心をつかんで放さなかった。だが、翌年の春、その人は士官学校へと去って行かれた。
 二年後に戦いは終わった。師は士官の学業半ばで帰還された。戦後の慌ただしい混乱の中で、村は三顧の礼を持って新制の小学校教師として迎えようとした。師はその時『私のように職業軍人としてこの戦いに参加した者がどうしておめおめと生徒の前に立てるでしょう。それこそ教え子たちへの裏切りとなります』と固辞されて二度と教壇に戻られることはなかった。師と結婚された小野女先生も、師の意に沿って学校を退かれ、二人はひっそりとその後の人生を農業にささげられた。
 三十年の後、おじんに仲間入りしたその時の教え子は一夏、師を訪ねた。梯子を掛けて屋根裏へ物を運び上げておられた師は『おお!種さん』と転げるように下りてこられて、わが手を取られた。女先生は『ともあきさん。まあ!まあ!』と言われたきり、涙で後が続かなかった。『トモアキサン』。何と懐かしい響きよ。当時女先生は皆そう呼んで下さった。
 同級生だったEが先年、この村の村長になった時、彼は無理やり師を助役にお迎えした。
 師はようやく重い腰を上げられた。」
 
なにか、最後にほっとして溜飲の下がるお話です。戦後、徴収された兵士たちではなく、いわゆる軍人たちは、思想的に価値観が180度変わってしまった中で、どのような人生を踏み出すことになったのでしょう?節を屈して転向すると言えば聞こえはよいでしょうが、迷わず「変節」して時流に乗った人物もいたことでしょう。生きねばなりません。

しかし、飯塚先生のように、望まれても時流にのみ込まれず、自分にとって厳しい生き方を選ばれた人もいたのだということに畏敬の念を覚えるのです。非情で、容易ならざる人生を選び、奥さんと共に歩まれたわけですが、己を貫く「芯情」だと私は思いました。
 
「手習の師を車座や花の児」
 服部嵐雪(1654年~1707年)