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良心とコミュニケーション―自己啓発・組織運営に効く文化人類学入門#10

第5章 良心の機能とコミュニケーション

 前回、コミュニケーションとはどういうことかを学びました。

 ここでもう1つ大切な問題について考えます。人間の良心とコミュニケーションの問題です。

 コミュニケーションのプロセスで伝え手と受け手のモラルが違う場合、コミュニケーションは難しくなります。文化によってモラルは違いますし、世代間でも違います。

良心、すばらしく微妙

 ここで、良心についてごいっしょに考えます。

 第1に、文化人類学のリサーチで、ヒトに分類される生き物には、例外なく良心の機能が備わっていることがわかりました。良心の機能があること自体は、文化の枠を越えて普遍的です。

 たとえば、殺人です。文化の違いによって敏感さに差はあっても、良いことではないという共通の認識が人間にはあります。

 窃盗はどうでしょうか。「置いてあるものは皆のもの」と考える人もいれば、「一時的であってもことわりなく使わせてもらえば問題になる」と考える人もいます。

 理解の差はあっても、他の人に所有権が帰属するものを無断で使用することは所有権の侵害であり、基本的に良いことであるとは考えません。

良心の機能の幅

 第2に、人間に生来与えられている良心の機能は、人や文化によってかなり幅があります。

 良心は文化や価値観などの影響を受け、誤りを犯しやすく、かなりブレます。またある程度自分で教育することも可能です。

 良心の機能の差は、わたしたちの日常生活において悩みの原因になります。敏感な人と鈍感な人がいます。

 けっこう深刻です。亀裂の原因になります。

良心のずれが誤解を生む

 良心の機能の違いは、コミュニケーションにどのように影響するかを考えます。図をご覧ください。

 第1に、文化が異なると、良心の機能の間に重なる部分と重ならない部分(discontinuity)が出てきます(図・左上)。

 その場合、互いにずれている部分を不道徳だとして非難し合います(図・右上)。

 これは、日常的に起きます。友人関係でも、夫婦関係でも、親子関係でも同じです。

 なぜ、こういったことが起きるのでしょうか。

 コミュニケーションするとき、伝え手は受け手の良心に照らしてであるよりは、伝え手自身の良心に照らして行動するからです。

 逆のことも起きます。伝え手の行動や発言は、受け手から不道徳であるという批判を受けます。

自分を「神」の位置に置く自信家

 第2に、文化の影響を受ける良心と、そのコミュニティーが共有しているモラルの規準の間には、重なる部分と重ならない部分があります(図・左下)。

 人間は、自分の良心の判断は正しく絶対的であると考えます。しかし良心が語る声はかなり相対的です。

 さらに複雑なことに、自分の良心の機能は自分の文化によって規定されているにもかかわらず、多くの場合、そのコミュニティーが共有しているモラルの基準と自分の良心の機能を区別できません(図・右下)。

 その2つを1つであると思いこみ、(C)と(A)の部分があることに気づきません。

 人間はみなある意味自信家であり、区別する必要すら感じていない可能性があります。

 この場合、自分を「神」の立場に置くことになります。

 そうすると、自分が絶対的に正しいので、語るときも人と接するときも、「裁き調」、「教える調」になることは避けられません。

 ヒント 教える調になるのは、自分とコミュニティーが共有するモラルの基準にずれがないという思い込み。少し弛めてみる。

 コミュニケーションとモラルの問題は、かなり奥行きが深い問題です。しかし、とりあえずこのあたりまではおさえておきたいと思います。

 続き ―次回は、組織を立ち上げるときのプロセスについて考えます。


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