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#ジオログ03|"ジオパーク"を通して隠岐を世界へ届ける。事務局長・野邉一寛の挑戦はこれからも続く。

#ジオログ
隠岐は日本海に浮かぶ小さな離島のジオパーク。「保全保護」「教育」「観光(ツーリズム)」の観点から更なる持続可能な発展を目指し、多種多様な職員達が在籍しています。「ジオパークで働く人を知る」がコンセプトの本特集。今の彼らの目に映る隠岐を見てみませんか。

はじめに
 今回取り上げるのは隠岐ジオパーク推進機構の事務局長である野邉一寛(のべ かずひろ)さんです。今でこそ隠岐の子どもたちは「ジオパーク」について、「隠岐」について学校教育でよく学びますが、隠岐の島町出身の野邉さんの幼少期はほとんど行われていませんでした。隠岐を知らず出ていく若者たちと次第に過疎化が進む自分の故郷への危機感は募るばかり。
「これではダメだ。隠岐を元気にしたい!」
その一心で動いた先にみえた「隠岐ユネスコ世界ジオパーク」。
現在に至るまでの険しくも温かい道のりをどうぞご覧ください。

 野邉一寛さん。2021年7月にオープンした泊まれるジオパーク拠点施設 Entôにて。

  隠岐がご出身の野邉さんですが、幼少期から今までずっと隠岐で暮らし過ごしてきたのでしょうか?

 いやいや、そんなことはないよ。中学校までは隠岐で育ったけれど、高校は松江にある工業系の専門学校に進んだんだ。特に土木関係の勉強をしていたから卒業してからは民間の建設会社に就職したんだ。当時、俺も含め島で育った子ども達は早い子だったら高校進学のために中学卒業後本土に行くし、遅くてもこの島は高校までしかないから高校卒業したらみんな出ていく。ほぼ98%は島からいなくなるようなそんな時代だった。そこからまた島に戻るかは同級生みててもほんとに色々だね。俺は1994年にこの隠岐に帰ってきて役場の建設課に配属になった。また大人になってから見る隠岐って少し違っていてね。建設課でまちづくりや地域振興に関わるようになってから一番に思ったのは「役場と民間、島民ってバラバラに動く部分が多いんだ。」ってことだったな。

事務所で部下との打ち合わせ。視察や会議で4町村を船で行ったり来たりする日も珍しくありません。

 役場・民間・住民のそれぞれがまちづくりや地域振興には欠かせないピースですよね。具体的にどんな場面で感じたのでしょうか?
 
 
あくまで自分の体験だけど、どこか役場と住民・民間には距離がある気がしたんだ。例えば俺は道路や河川の工事を担当してたから、公共工事をする時に地権者である住民に説明会を開くよね。でもまだソフトなんかもなかったから現地に行ったり土地の写真にマジックを引いて「ここらへんに道路が来ますよ」って説明するんだけど、図面に慣れていない住民が十分理解するのは難しい。でも役場側から住民に積極的に理解を進める姿勢ではなかったから、工事が終わった後に住民から「こんなはずじゃなかった」っていう声が出る時があったんだよね。

 その距離を縮めたいって思ったから住民参加型の公共工事っていうのをやることにした。「A地点とB地点の間に道路を作りたい、じゃあどんな設計にしよう」っていう設計段階から一緒にワークショップをすれば誤解は生まれないんじゃないかと思ってね。そしたらそうやって住民・民間に入ってもらう内に思わぬ収穫があったんだ。

MUSVI(株)のテレプレゼンスシステム「窓」で会話している様子。複数拠点で活動する隠岐ジオパーク推進機構にとって欠かせないコミュニケーションツールです。

 今までバラバラに動いていたまちづくりを共にしてみようという試みですね。どのような収穫があったのでしょうか。

 バラバラだと思っていたけれど、そうじゃなかったっていうのかな。「隠岐を元気にしたい」っていう想いはみんな一緒で、俺が思っていた以上にそれぞれが町おこしのイベントや取り組みをやってた。でも連携してやらないと隠岐全体の波及効果って小さいまま。だから官民協働のまちづくりグループを作ってとにかく色んなイベントを開いた。隠岐の島町の西郷港で結婚式を行ったり、日曜日の朝6時から朝市を西郷港の近くの通りで開いたり…島民が何百人って集まるイベントを続けることで "行政と住民がみんなで協力すれば出来るんだ" ってことをまちづくりに関わる人に体験してほしかったんだ。その成功体験があってこそ今は彼らが先頭に立って、隠岐の色んな場所で地域振興のために動いてくれているよ。

 そこから俺が考えたのは次のステップとして 、"隠岐だからこそ成せること" に挑戦するべきなんじゃないかってことだった。「じゃあ隠岐ってどんな地域なんだっけ?」って改めて自分が育ってきた故郷を振り返った時、全然知らないし隠岐のことを語れないってことに気づいた。島外にいる時も出身の話になると「出雲大社の近くです。」「鳥取砂丘の近くです。」って誤魔化していたのは、"離島で田舎だ"っていう劣等感がきっとあったからなんだ。それに隠岐を知らないから、「どんな島なの?」っていわれても10秒で終わるようなことしか言えなかったしね。

隠岐諸島有数の景勝地・西ノ島・摩天崖の夏場の様子。青々とした空と海が見渡せる放牧地が広がります。

 今と比べてまだ地方への関心も少なかった中で住民と共に始まった地域振興の取り組み。"隠岐だからこそ成せること" の手がかりは見つけられたのでしょうか。

 とにかくまずは隠岐を知らないと何も始まらないと思った。そこで大学教授や地域の方に講師役を務めてもらって隠岐の地質・生態系・歴史文化について学ぶ講座を年20回開いた。でも当時の俺は建設課の所属で4月から10月までは繁忙期。だから主に冬季の間だけ毎週土日に開催していて、2004年から2年間集中してやったよ。今まで何となく見ていた景色がなぜそうなるのか紐解かれていく過程は楽しかったし、そこで初めて「隠岐って面白いな」って思えたんだ。そこから後も、講座で習ったような内容がまとめられている本ってなかったら講座で配布される資料をまとめてガイドブックを執筆することに。役場の仕事を17時までしてそこから家で毎日いそいそと書いてたね。気づけば隠岐のことにすっかり詳しくなってて、一晩でも語れるようになったよ(笑)

野邉さんが執筆を担当したガイドブック。「大地の成り立ち」「独自の生態系」「人の営み」の三つの観点から分かりやすくまとめられています。

 初めはその面白さをエコツーリズムっていう観光の文脈で生かそうとしてた。でも島外の人だけじゃなくて島民、特にこれからを担う子どもたちに向けて隠岐のことを学ぶ機会も増やすべきだと思って悩んでた時に「ジオパーク」っていう言葉を始めて聞いたんだよね。ジオパークについての話を詳しく聞くうちに「これなら観光・教育どちらの分野でも隠岐を伝えていける!」と思ったし、隠岐の興味深さはジオパークにすごくハマってると思った。そこで隠岐はジオパークになれると、いや、"隠岐だからこそジオパークになれる"と確信したんだ。

隠岐ジオパーク推進機構のアクションプラン策定に関するワークショップでの一コマ。長丁場の後ですが何だか楽しそうです。

 "隠岐だからこそ成せること"の手がかりとなった「ジオパーク」。そこから日本ジオパークそしてユネスコ世界ジオパークの認定までの道のりは険しいものだったのでしょうか。

 もちろん簡単な道ではなかったけど、「隠岐を元気にしたい」っていう想いに迷いはなかった。まず当時の隠岐の島町の町長や副町長に直談判して隠岐のジオパーク認定を本格的に目指し始めた。隠岐の島町の教育委員会がジオパークの窓口となることとなり、俺も建設課から教育委員会へ異動したのが2009年の4月。そこから隠岐4町村の行政と民間団体が参画する隠岐ジオパーク推進協議会を立ち上げたのが6月、そして10月に日本ジオパークとして認定された。これだけスピード感を持って進められたのは今までの講座に加えてガイドブックの作成や、ガイド養成講座など住民の方との活動があってこそだった。

 そして無事に日本ジオパークとして隠岐が認定されて、いよいよユネスコ世界ジオパークの認定を目指すとなった時も民間で助けてくれた方々がいたからこそ動きやすかった。隠岐4町村だけでなく島根県の賛同も得て2011年にUNESCOへ申請書を提出、2012年の認定保留を経て2013年ようやく「隠岐ユネスコ世界ジオパーク」として登録された。発表式の壇上で認定書を渡された時は今までの色んな感情が混ざった。嬉しかったし安堵したね。

認定された後もジオパークでは4年に一度、再認定審査が行われます。今年2022年9月にも審査員2名が来島し、現地調査が実施されました。

 そして2022年4月には隠岐ジオパーク推進協議会は”隠岐ジオパーク推進機構”と名前を変えました。2013年からの10年近くの歩みをどう感じていらっしゃるのでしょうか。

 まだまだ課題がある部分もあるけど随分と進められたと思う部分も多い。教育の面ではジオパーク教育が保育園から高校まで島内で行われるようになったし、海岸清掃や外来種駆除の活動を子どもたちが主導で行うこともある。あとはジオパーク活動は隠岐だけじゃなくて日本さらには世界にネットワークが広がっている。ジオパークのヨコの繋がりから広く隠岐を捉えるような物の見方で、子どもたちが隠岐の魅力を主体的に発見できるような機会づくりは今後やっていきたいことの一つ。

隠岐の海岸に流れ着く漂着ゴミは島全体の環境問題となっています。こちらは県外から研修で来た子供達がジオパーク学習として海岸清掃をする様子です。

 観光の面での大きな変化として、隠岐4島の観光を統括する隠岐観光協会と合併して組織の名称を"隠岐ジオパーク推進機構"としてことが挙げられるね。観光協会の合併と名称変更が意味するのは"隠岐の観光はジオパークを基盤にしてやっていく"っていうこと。ツーリズムに加えてジオパークとして環境保全も観点に置いてた、これからの観光に求められていることを作っていくことが隠岐の観光の形になっていくんじゃないかと思ってるよ。

 ユネスコ世界ジオパークになったからこそやれること・やるべきことがあるということでしょうか。ジオパークとしての前進を続けていく中で野邊さん自身が果たしたいことはありますか?

 そうだね、難しいな。「ジオパーク」っていう側面からの隠岐と隠岐ジオパーク推進機構っていう組織を島民に馴染み深いものにしてくことかな。今の俺は胸を張って隠岐出身だって言えるし、魅力だって数えきれないほど思いつく。だから隠岐は決して「なにもない島」じゃない。俺を含めた隠岐に住む島民、特に子どもたちがそう言って胸を張れるようになるための活動を続けていきたいよね。そしてそのために機構で働く職員はIターンが多いんだけど、どんどん地域に出かけて行ってほしい。親戚も友達もいない中で溶け込むのは時間がかかるかもしれない。でも少しずつ受け入れてもらって積極的に関わっていくことで、結果としてジオパークに興味をもってもらえればすごくいいよね。俺自身もその目標を忘れずに、もうしばらくはこの隠岐で舵を切って行きたいな。

筆者からのひとこと 
 インタビューの中で印象に残ったのは「ジオパークは人づくり」という言葉でした。"隠岐を元気にする" そのためのやり方は大小多くあるけれど、一時的でなく未来へ持続する取り組みか、も同じくらい大事。その土地を知って、愛着が湧いてこそ人は「10年先のここを考えてみようかな」と思うもの。子供たちに隠岐を伝えていくことを大切にしている理由に気づかされた時間でした。