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動機付けを考える

踏襲、この言葉は大学院に入って学んだ言葉。前例通りに物事を行うこと。
「踏襲をやめなさい!」
教授から言われた一言。
そっか。私にはこれまでやってきたことを一旦捨てる!これが今大事なんだと全て捨てた。

いや、正確に言えば、捨てたつもりでいた。でも授業を作ると、やっぱり気がつかないうちに、これまでの前例をもとに授業を作っている自分がいた。

人はなかなか前例を捨てられない。
その言葉を胸に、現場に戻った。

現場に戻ると、やっぱり前例通りがふつふつと湧き上がる。

グループを構成するときにもこれまでは、リーダーを決めて、そのあとメンバー構成を考える、こんなことをしてきたのだが、本当にこれがいいのか?もっかい考えて、くじ引きで決めた席でしばらくはグループを作ってみる。

こんなふうに積み上げてきたものをいったん壊す。こんな作業をここ半年してきた。

そして見えてきたことがある。

それは、私のこれまでやってきたことは、間違っていなかったってこと!

「子ども主体」「教師は子どもをもっと待たなくてはいけない」「仕掛けすぎ」などたくさん理想論を学んできた。

でも現場に戻って思うことは、理想と現実は違う。

理想では、教師が見守っていれば、子どもたちはどんどんと自ら学ぶ、(学ぶだろう)だが、実際の現場の子どもたちは違う。

子どもたちが自ら動くためには、まずは無気力をどうにかしなくてはならない。

これまでの積み重ねから、もうすでにやる気がなくなっている子どもたちが実際にはたくさんいるのだ。

そんな子どもたちを、どうにか外発的動機付けや内発的動機付けへと持っていかなくてはならない。

そんなことを考えると、教師は見守っているだけでは子どもたちは動かない。

動機付けの段階によって、教師の指導を変えなくてはならない。

動機付けに段階をつけてもいいのか?という疑問はあるが、内発的動機付けで動く子どもたちは、やはり教師の役割は少なくなるのでは...?と考えるのである。

無気力(無動機づけ)や外発的動機付けには、教師の出番がある程度必要で、しっかり教えてできるようにしてから自分でさせてみる、とか一人一人に勇気を与えるような言葉かけをしたりとか...

そのように子どもたちの動機付けや成長過程によって、だんだんとはしごを外していくことが大切なのだと改めて感じるのである。

現場に戻って一番思うことは、将来この子たちが幸せに暮らせるには、今何を学ばせることが一番いいのか?

そう考えると、最後まで諦めないとか何度も挑戦するとか、他人の話を聞くとか...

学力で測れない力(非認知能力)が大切なのだろうと改めて感じるのである。

もちろんそれは、各教科の学習の中で習得させていかなくてはならない。

例えば、跳び箱が跳べない子には、跳べるようにしてあげるのが教師の役割だし、諦めずに何度も挑戦させながら、できたときの達成感を味わせなければならない。

このとき教師は影武者となり、あくまで自分の力でできたと思わせることが大事なのだろう。

無気力な子は、まずはやってみよう!と促すことが大切だし、外発的動機付けの子は、できたらシールを貼らせたり、自分の成長を見える化してあげると効果的だろう。内発的動機付けな子には、そんなことはもう必要なくて、跳び箱の面白さを感じてもらったり、自分なりに目標を見つけて挑戦することができれば、どんどんと自ら動き出すのであろう。

一人一人に合った支援をしていくことで、どの子も輝くことができる。

私はこれがまさに個別最適化だと思うのだ。

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