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【小説】 続・次の春もあなたとともに

 この物語は、「次の春もあなたとともに」のつづきです。

「ごめんね。お母さん」

 そう言うと決めていたはずなのに、悲しい気持ちと涙が私の中から溢れた。
 私は約束を破った。大事な人、お母さんとの約束を破るその一言が自分の口から放たれた時、感情が分からなくなっていた。
 電話をしていたベランダから見上げた空には、まん丸のお月様が滲みながら浮かんでいた、

 約二ヶ月前。世界は急に静かになって、慣れない土地で私は一人になった。地方から就職をして初めてのひとり暮らし。新入社員だというのに、会社に出勤したのは五月が終わるまでに四回しかなかった。
 同期入社のメンバーとも連絡しあったり、パソコンの画面を通して顔を見合わせていた。だけどまだ気を使っている部分があって、どこか距離が縮まらなかった。同期の男の子がリモート飲みに誘ってくれた時は少し楽しかったけれど、ノートパソコンの画面を閉じた瞬間に、部屋の静けさが私が一人であることを教えてくれた。

 私はずっと、この部屋を中心にまだあまり知らない小さな世界の中で過ごすしかなかった。

 遠くに行けない分、この二ヶ月で家の周りのことを知ることができた。スーパーやクリーニング、ドラッグストアの場所は大体分かった。近くに図書館があることも、少し歩けば大きな公園があることも知った。
 だけど、その場所を使うことは遠慮してしまう毎日だった。お金もないし、それ以上の心配がずっと私にくっついていた。自由な時間があるのに、自由な行動ができなかった。

 その不自由な時間も夏の始まりとともに終わったように思えた。

 六月。
 久しぶりに会社へ出勤することになった。一週間も続けて、電車に乗り、オフィスへ向かったのは初めてだった。
 図書館が開き、気になっていた雑貨屋さんにも入れるようになった。

 当たり前だったはずの日常をようやく感じられるようになった。だけど、マスクをして、消毒をして、今まで当たり前でなかったオマケが付いている時間に違和感を感じていた。

 もう大丈夫なのかな。

 誰に聞けば良いかも分からず、なんとなく周りを見ながら、それを真似して過ごしていた。街の中では、マスクをしない人も増え始めた。何が正しくて、どちらを選べばいいのか。知らない人ばかりの場所で私はずっと迷っていた。
 そんな時に、お母さんからメッセージが届いた。

 "そちらはどうですか。こちらは変わらず静かにしています"

 実家の庭に咲いた満開のアジサイの写真と一緒にメッセージは送られてきた。お母さんは二ヶ月前に買ったスマホの扱いにもすっかり慣れてきて、最近は写真の送信は当たり前に、スタンプだって自分で買えるようになった。その成長を見るたびに笑顔になった。数日に一度お母さんから届くメッセージのおかげで、私の気持ちは平穏を保っていた。

 出勤が始まってから昼間にスマホを触ることも少なくなり、やりとりも少なくなっていた。土曜日の午前中。昨日届いていたメッセージを今さら確認する。夏の日差しが差し込む部屋の中で、ベッドに座り、私は返事をした。

 "会社も始まって、外に出ることが多くなったよ。ちょっと心配だけど、気をつけて電車に乗ってます"

 お母さん、お父さんはいま何しているんだろう。考えながら、今まで送ってくれた写真を見返していると、新しいメッセージが届いた。

 "体には気を付けてね。帰ってこれるのはいつになるのかな"

  外出自粛は無くなった。もう外に出てもいいはずだ。お母さんとお父さんに会いたい。メッセージをみた途端にその感情が溢れた。本当なら五月の連休に実家へ帰る予定だった。でもそれは我慢した。

 もういいのかな。会いに行っても大丈夫なのかな。

 分からなかった。何が正しくて、何が間違いなのか。普通にお店だって開いているし、会社では飲みに行っている人だっているみたいだし。

 私だって。別に、電車に乗って、家族に会いに行くだけだし。そう思うと自然に指が動いていた。

 "来週末に帰ってもいいかな?"

 気付いたら、お母さんにメッセージを送っていた。既読のマークがすぐに付いたけど、返事はその日の夜まで返ってこなくて、お風呂に入っている間に返事がきていた。画面には、OKの文字と一緒にパンダのキャラクターが飛び跳ねているスタンプが一つだけ表示されていた。

 月曜日。仕事が終わってから、会社近くの金券ショップへ向かった。会社員になったものの、この場所に通ったのはまだ十回程度。どこに何があるかも分からない。地図アプリを使っても、店舗に到着するまでは予定の二倍以上の時間がかかった。

 新幹線の回数券を初めて買った。これを持って駅で発着時間を指定しなければいけないらしい。このまま駅に向かって指定席に切り替えれば良かった。だけど、なぜかその時は乗るはずの電車を決めようと思えなかった。

 次の日、駅に向かい券売機の前まで行った。回数券を機械に入れて、日にちまで指定した。だけど、時間が決められない。本当にこの時間に、実家がある駅に到着していて良いのか。本当に家族に会いに行って良いのか。分からない気持ちがずっと心のどこかに留まっていた。 

 新幹線の席は、あまり埋まっていないようだった。まだ大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせ続けたまま、結局金曜日の朝を迎えていた。

 金曜日。とても暑い一日だった。今まで少しかしこまって着ていたオフィスファッションを、薄着でカジュアルなものに変えることになった。
 仕事も少しずつボリュームが増え始め、その日は今までで一番忙しかった。言われたことをこなしていくだけで、気付いた時にはすでに日が暮れ始めていた。キリよく作業を終わらせ、終礼をこなし、帰り支度を始めようとした時だった。

 「今日飲みに行きたいやついるか?軽くな」

 先輩の一人が私たち新入社員に声をかけた。入社してからというもの、会社で飲み会や交流会は開かれたことがない。春先は会社としても自粛するように言われていたが、今は「節度を持って」という程度の伝え方に変わっていた。
 初めての出来事に、新入社員同士で顔を見合わせた。一人の陽気な男の子が声と共に手を挙げると、それに続いて数人が手をあげ自然と先輩の方へ近付いて行く。

 「私は今日予定があるので、残念ですが」

 隣にいた子はそう言って帰り支度を始めた。どうしよう。先輩に集まる同期と、隣の子の間を私の視線が何度も往復する。何も言えないまま時間が過ぎていく。先輩は人数を数え始め、隣では荷物がほとんどバッグにしまわれていた。

 「一緒に帰る?」

 隣から優しい声が聞こえた。マスク越しで表情が見えないけれど、柔らかく笑ってくれているような気がした。その一言で、私の気持ちが傾いた。

 「お疲れさまです。私もお先に失礼します」

 盛り上がる先輩集団にはきっと聞こえていないかもしれない。それでもやっと声を出して、私たちは二人でオフィスを出ることになった。

 「すーちゃん、お酒飲めないんだっけ?」

 オフィスを出て少ししたところで、明るく投げかけられた。一緒に帰ってくれたのは、リエちゃんだった。出身は東京だけど、社会人になってからひとり暮らしをしているらしい。明るめのショートヘアとモノトーンの着こなしは、同じ新入社員とは思えなかった。ずっと同期のみんなで行動はしていたけど、二人で話すのは初めてかもしれなかった。

 「お酒、飲めなくないよ。一人じゃ飲まないけど」
 「じゃあさ、少しだけ話さない。公園で。お店はちょっと心配だからさ」

 リエちゃんは慣れた様子で近くのコンビニへ向かった。どうして迷わずに進めるのか不思議だ。コンビニに入っても迷うことなくお酒のコーナーへ向かって行く。ビールのロング缶を手にする様子を見ながら、わたしは小さなチューハイを選んだ。コンビニを出ると、やはりリエちゃんは慣れた様子で道を進んでいく。
 昼間と違う景色の中で、わたしはどこを歩いているのかまるで分からなかった。リエちゃんに付いていくと、オフィスビルの隙間に子どもが走り回れる広さはある公園が現れた。こんな場所があったなんて。しかし、こんな時間だ。当然ながら子どもの姿は見えず、代わりにサラリーマンカップルが何組か、ベンチやブランコに座って話していた。

 空いているベンチを探してそのまま座ると、リエちゃんはマスクをあごの下におろし、空を見上げながら大きく息を吐き出した。小さなビニール袋の中から缶ビールを取り出し、プシュッという音を公園の中へ弾けさせた。私はそれに見惚れながらも、遅れを取らないように慌てて缶を開けた。だけど私の音は、リエちゃんよりも小さい気がした。
 準備が整ったことを確認すると、リエちゃんが私に向けて缶を差し出してくれた。
 東京に来て、初めての乾杯だった。

 「ここだったらいいよね。涼しいし、周りとも距離取れるし」

 リエちゃんがロング缶を煽ぐ。うわっ、もうぬるい。そう言いながらも、私が飲めないビールで喉を潤していた。

 「さすがにさ、まだお店とか行くのは勇気いるんだよね。きっと大丈夫なんだろうけど」

 隣に座り、少しずつ話をしてくれた。自分はいいけど、家族に迷惑はかけたくないこと。我慢はしたくないけど、後悔はもっとしたくないこと。この二ヶ月、少しだけ寂しかったこと。

 「リエちゃんも寂しかったんだ?」
 「寂しいよ。本当だったらすぐに家族に会えるのに。それも我慢しなきゃいけなかったし、友達にも会えなかった。すーちゃんとかみんなにも会いたかったしさ」

 今の状況を気にしない人はいくらでもいるけれど、自分の大切な人のことを考えたら、そんな簡単に判断はできない。後悔しないためには今我慢するしかないんだから。今の状況で明るくなれる方法はたくさんあるはず。

 リエちゃんは、色んな文句を言いながらもそう話してくれた。昼間の暑さが嘘みたいに、夜の風が気持ちよかった。夜風と一緒に自分の周りを漂っていたよく分からない気持ちが少しずつ薄まっていく気がする。
 ヨーグルト風味のチューハイが手の中ですっかりぬるくなっていたけれど、それをちびちびと飲みながらリエちゃんと話す時間は、私の心を軽くしてくれた。

 心の中の濁りを吐き出して、その代わりにビールを体の中に補充するリエちゃんの姿が格好よかった。ロング缶を空に向かって傾け、全てを補充した後、ビニール袋に空き缶を入れる。私も慌てて缶の中身を空けた。何も吐き出していない私の体の中に、ぬるいヨーグルト味が注がれていく。あまり気持ち良くなかったけれど、リエちゃんに少し近付いた感じがして嬉しかった。

 「外出?飲み会?みんな自分勝手に好き放題してさ!バカやろーだよ。ばーかばーか!」

 そう言いながら彼女は笑った。とても可愛くて綺麗な笑顔だった。私も笑い返すと、目が合った。その瞳は大きくて、とても澄んで色をしていた。それからリエちゃんはマスク付け直した。大きく息を吐き出してベンチを立ち上がり、私たちは駅へと向かった。

 家に着いたのは二十時前。一人で帰る間に電話をしようと決めていた。そして、伝えることも決めていた。少しでもまどろむ気持ちを払いたくて、ベランダに出る。風が優しくなびいていた。
 薄暗い空気の中で通話ボタンを押すと、何回かコール音が続いた後、お母さんの声が聞こえた。

 「ごめんね、こんな遅くに」

 いいえ、のんびりしてたからちょうど良かったわよ。受話器の向こうで、少し眠そうな声が聞こえた。どんな気持ちなんだろう。もしかしたら、傷つけてしまうかもしれない。だけど、伝えなければいけないと思った。

 「ごめんね、お母さん」
 「うん。いいのよ」

 まだ何も伝えていないのに、お母さんは返事をした。少し迷った。自分の気持ちがちょっとだけ分からなくなった。でも、ゆっくり整理しながら伝えようと思った。

 「あのね。明日帰るのやめようと思って」

 画面の向こう側が静かになる。大きく息を吐く音が聞こえた。しばらく空気の流れる音だけが聞こえた後、お母さんが口を開いた。

 「よかった。私もその方が良いと思っていたの」
 「そうなの?」
 「うん。すーちゃんに会いたい気持ちはたくさんだけど、まだ心配なことも多いからね」

 私も同じだよ。お母さんに、お父さんに会いたくて仕方ないけど、心配なんだよ。

 「すーちゃんがそう言ってくれて良かった。お父さんとも話してたのよ」
 「ごめんね。こんな間際に」
 「いいのよ。いま元気でいられれば。もう少し経てばたくさん会えるからね」

 お母さんも同じ気持ちだったことが嬉しくて、今まで抱えていた濁った気持ちをそのまま全部話していた。

 「私たち以上に東京は気になるのよね、きっと。えらいわよ、そんなに考えられて」
 「リエちゃんっていうね、同期の女の子と話して気付けたんだよ」
 「東京でも友達ができたのね。それは良かった!」

 友達。確かにただの同期じゃなくて、リエちゃんとは友達になれそうな気がする。

 「あ、そうだ。知ってる?これでテレビ電話できるのよ?」

 少しの空白が生まれた後、お母さんが音声通話からビデオ通話へと切り替えた。耳元の画面を目の前に移動させると、画面の中にはデカデカとすっぴんのお母さんが現れていた。
 お母さんは慣れた様子で操作を切り替えると、私の画面にはリビングでテレビを見るお父さんが映った。お父さんはそれに気付き、何回か手を振ってくれたけど、どこか恥ずかしそうで、立ち上がってキッチンの方へ消えていってしまった。画面がお母さんの顔へと変わる。

 「こうやって顔は見れるんだし。会えるまで、たまにはこうやってお話ししましょ?」

 画面の向こうでお母さんが優しく笑いかける。自分では思いつかなかった提案が少しだけ悔しい。画面の中のお母さんはふざけながら左右に揺れている。久しぶりにお母さんとちゃんと話せている気がした。

 「あ、そうだー」

 話しながらまた何かを思い出すと、お母さんは悪戯めいた顔をして画面を操作しはじめた。すると、お母さんの顔にネズミの耳が、ヒゲが生えはじめ、顔の周りがキラキラと動きはじめた。

 「なにそれ!」
 「すーちゃん、知らないの?フィルターよ、フィルター。加藤さんに教えてもらったの!」

 ネズミになったお母さんが口を開けたり、顔を上下に振りながら笑っている。久しぶりに思い切り笑った。会いにいけなくても、こうして一緒に笑えるんだ。

 だから、きっと大丈夫なんだ。
 次に会えるのは、いつなんだろう。新幹線の回数券、期限が切れるまでに会えるといいな。それまでは、こうして笑い合おう。

 来年は、あのアジサイの花を家族で一緒に見られるように。

 お母さんの元気そうな顔を見ながら、私は自分の顔にもネズミの耳とヒゲを生やしてみた。


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以前書いた小説「次の春もあなたとともに」の続きを書きました。
外出自粛が始まった時に書いた物語が、その後どうなるかなんてその時は想像もつきませんでした。

まだまだ先が見えぬ中、なにを信じたら良いのか迷って悩んでいる人も多いと思います。僕もその一人です。その中でも、大切な人を思う気持ちが大事だと書きながら強く思いました。

誰かの支えになりますように。たくさんの人に届いてくれたら嬉しいです。

前回のお話をまだの方は、ぜひ一緒にお読みください。

作:大久保忠尚


バナーの画像作成に、たくさんの方からアドバイスをいただきました。
本当にありがとうございました。

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