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スープストーリー #2:骨つき鶏と大根のスープ


 年末ということもあり、忙しい日が続いていた。日々の疲れは徐々に体力を奪い、気が付けば喉が痛くなり、彼と共に風邪をひいていた。この時期に休むことは他のメンバーに迷惑をかける。体は動く。栄養剤を飲みながら、私は体にムチを打った。

 しかし、その結果頭は働かず、普段では考えられない大きなミスをしてしまった。すぐに対処しないと他社にまで迷惑をかけるかもしれない。繁忙期に予想外のトラブル。元々やるべきだった仕事を他のメンバーに託し、ただひたすらトラブルの解決に走った。

「大変申し訳ございませんでした」

 関係する会社を回り、何度も頭を下げるうちに、体の節々が痛み始めた。同じ動作のはずが、回数を重ねるごとにまるで自分の体ではないかのように徐々に言うことを聞かなくなっていく。
 運良く取引先への謝罪は大事にはならなかったものの、まだ社内でやるべきことが残っている。

 あと少しだけ頑張れば。そう思いながら私は帰社し、自分のデスクに腰をかけようとしたところで、私の視界は白とも黒とも言い表せない光に覆われていった。

 夕方。マスクを取り出し、早めに帰ろうとしていると、知らない番号から電話がかかってきた。社用のスマホではないので、仕事の電話ではないはず。鳴り止まないバイブレーションを止め、ゆっくりと耳へ向けると、妻の上司を名乗る男性からの電話だった。

「奥様が倒れました。いま近くの病院へ向かっています」

 それだけが耳に残っていた。大した状況を聞く前に電話を切ってしまった。教えてもらった病院へと急ぐ。コートを手にビルを出た。小雨が少しずつ自分の髪を、顔を、ジャケットを黒く染めていく。だけど、寒さは感じなかった。
 電車でも変わらないはずなのに、すぐ前の道路でタクシーを呼んでいた。普段使わない車での移動は、想像以上に時間の経過を早く感じさせた。

 眼が覚めると、真っ白な天井が目の前に広がっていた。白の中にイモ虫のような黒線が何本も散っている。私は、知らないベッドで寝ていた。とても寝心地が良いとは言えないベッドから体を起こす。ベッドサイドでは、スーツ姿の彼が小さな丸椅子に座っていた。

 「良かった。眼が覚めなかったらどうしようって思ってた」

 そんな風に言う彼の手元にはピンクのブックカバーで覆われた文庫本。呑気なもんだ。思考を巡らすと、頭の中が痛んだ。

 「ごめん。なんで寝てるのかよく分からなくて」
 「会社で倒れた、って。風邪が悪化したみたい」

 そう言われて、今までのことを思い出す。そうだ、仕事。起き上がろうとした私を、彼が文庫本を持たない方の手で制した。

 「ドクターストップ。仕事は他のメンバーがなんとかするって」
 「でも」
 「今日は入院だって。ご飯食べてないでしょ」

 彼が私の左腕を指差す。見慣れないチューブが私の腕に繋がれていた。
 食べる暇も無かった。体調のせいで食欲も無かった。私の体は動ける状態では決してなく、点滴されていることは当然と言えば当然だった。

 「明日の昼までここで点滴。そのあとは体調次第だってさ」
 「仕事どうしよう」
 「明日はもう休め、来たらボーナス無しだってさ。ウケるね、あの先輩」

 ふざける彼の顔を見て、少しだけ気持ちが楽になる。私の上司と彼が話していたことが意外だったが、寝ている間に連絡を取ってくれたのだろう。当たり前のように知らない相手と彼のことを尊敬する。

 「とにかく今日は早く寝て。必要そうなものはとりあえず買っといたから」

 彼が紙袋を差し出す。メイク落としや簡単なケアセット、中には替えの下着もあった。

 「自分で買ったの?これ」
 「会社の子に聞いてね。あとは店員さんに全てを話して」

 誰よ、その会社の子って。いたい。頭が痛む。そんなことを考えてる余裕が無くなってきた。

 「そろそろ行くよ。本当は面会の時間終わってるから」

 今更ながら、彼の頭上に時計があることに気が付く。耳を済ますと、カーテンの向こうで滴がぶつかる小さな音が聞こえた。

 ゆっくりと立ち上がり、彼は私の頭をなでた。

 昼過ぎに、彼女から連絡があった。体調は回復し、風邪も随分よくなったらしい。念のための検査と薬局に寄ってから夕方前に帰ってくるらしい。

 上司に事情を説明し、早上がりをした。まだ日の高いうちに最寄駅に着くのは久しぶりで、毎日通る商店街も別の街のようだった。

 いつものスーパーでは、惣菜が値引きされていないかわりに、タイムセールが行われていた。たくさんの女性の波に流されるままに、高く盛られた野菜をカゴに入れ、家へと向かった。

 毎日の食事は交代で作るはずだが、いつの間にか彼女が作ることが多くなっていた。甘えていたことが彼女の負担にもなっていたのだろう。反省した。

 空がオレンジから徐々に濃紺へと変わる頃、玄関の開く音がした。ビニール袋の擦れる音と一緒に、彼女が帰ってきた。

 「ただいま」
 「おかえり。お風呂湧いてるけど、入れそう?」

 彼女がゆっくり袋を置くと、重い音がした。袋の中を覗こうとすると、彼女の長い髪が鼻に触れた。細く、冷たい、だけれど温かい彼女の体が、自分の背中に手を回し一つになっていた。

 「今日のごはんは、お腹に優しいスープにしたよ」

 自分の顔の横で、彼女が長く息を吸う音が聞こえる。ゆっくりと胸をなでおろした彼女はゆっくりと口を開いた。

 「昨日言えなかったことがあるの」
 「なーに?」
 「化粧落としとか、下着とか用意してくれたでしょ?」
 「うん」
 「ありがとう」

 彼女と触れる部分が増える。彼女の温かさを強く感じる。首を振りながら、顔にかかった彼女の髪を振りほどき、彼女の背中をなでた。

 「何買ってきたの?」

 床に置かれたビニール袋を覗こうとすると、彼女は体を離し、袋の中身を取り出した。

 「ビール買ってきた!」
 「え?飲む気?」
 「ううん、飲んで欲しくて。昨日今日と疲れただろうから」

 袋には、銘柄の違う缶ビールが何本も入っていた。

 「ありがと。じゃあ、今日は飲んじゃうかな」

彼女が嬉しそうに微笑む。病み上がりだというのに、自分のことを考えてくれていたなんて。

 「せっかくだからお風呂入ってくるね。準備してくれてありがとう」

 袋を手に、彼女が冷蔵庫へ向かう。いくつもの缶を冷蔵庫へしまうと、最後に冷凍庫を開けた。

 「これも一緒に食べようね」

 普段は我慢しているという少し高めのアイスを手に悪戯そうに笑うと、彼女は洗面所へと向かった。

 スープたのしーみー。

 元気になった歌声が聞こえる。
 やっぱり、彼女のことが大好きかもしれない。


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