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「おいしいごはんが食べられますように」

高瀬隼子著「おいしいごはんが食べられますように」を読んだ。

よくある話と言えるのか

ストーリーというか起きる出来事は、よくあると言ってもいい。
厳密にはこんなことは滅多にないとも言える。
同著を読んで、わかる〜!と共感した人もいれば、全く共感しない人もいたのではないだろうか。
共感した人は、誰の共感をしたのだろうか。
共感しなかった人は、自分は誰の立ち位置だったのだろうか。

例えば

学校のクラスを思い出してほしい。
クラスにはリーダー的な男前がいて、何やっても許されるような女の子がいる。世界はこの二人で回っているようにさえ見えるクラス内だが、実際は、個々が生きていて個々が主役なはずだ。

主人公的な人のことは見えづらい

クラスの主人公になり得る人は割合的に少ない。
そして、そうでない人は、クラスの主人公的な人を羨ましくもあり、妬みの対象としたり、賛美したりする。
バイアスだらけで、その人のことはよくわからないことが多い。

今、誰の目線?

本性を表しづらい2人の男女が主人公。
目線は2人を行き来する。(ように感じる)
孤独で、正直で、嘘をつける人間。
本来、人間とはそういうものである生き方をしてくれる。
文章は丁寧で、多くを語らず、同等な心象を何度も語り、
不穏な感覚を植え付けられる。

食べもの(ご飯)

生きていくために食べるもの。
生きていることを実感するために食べるもの。
生きていることを大切に思えるか、思いたいと思うのか、
食べものをどうとらえているのかに差分があることに気づく。
また、自分もそうであったことにも気づく。

これは幸せと置き換えても、面白いと感じた。

働くということ

体調を壊してまで働く必要はない。
でも、無理もせず成果を生めるはずもない。
という考え方が普通だとされている。(今は)

体調を壊さないように、お休みできる人がいる。
できない人もいる。
組織はバランスでできている。
こっちが立てば、こちが立たない。

働くが生きる

働く時間が長くなればなるほど、働くために生きている感覚になる。
もちろん、ポジティブなこともある。
生きていることが働くことと同様となる生き方だってある。

残業、休日出社、どんどん自分の時間がなくなっていく。
睡眠時間と生きていくための時間だけになると、偏った何かが始まる。
万引きや痴漢など通常では自制できていたことが、そんな悪いことではないように感じてしまう。

おいしいご飯が食べられますように

「おいしいご飯」の定義は人それぞれ。
また、生きていれば変わるかもしれない。
理不尽で、不公平なこの世の中で、おいしいご飯を食べられている人は
どれくらいいるのだろうか?
あまりいない?実は意外と多い?
自分の「おいしいご飯(幸せ)」をフレームに入れ、満たされていると
思い込ませることで、幸せをゲットすることは長けている。

本当のおいしいご飯にたどり着けるのだろうか?
本当においしいご飯などあるのだろうか?



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