『それぞれに、朝。』(小説)
『次は新松戸、新松戸』
車内アナウンスで起きると、ティールブルーのパンプスが目に入った。今日はもう木曜日か。
1限がある木曜日は、いつもこのOLが前に立っている。MICHAEL KORSのハンドバッグを下げ、紺色のジャケットを羽織った女の視線は、スマホにだけ注がれている。胸元で光るシルバーのネックレスが、女の冷徹で余裕そうな雰囲気に妙に合っていて気に入らない。
人生何もかもうまく行ってそうな女。
未央は膝に開いていた、社会学のテキストをリュックにしまうと、足早に席を立った。
武蔵野線に乗り換える階段に、もう恋人は立っていないとわかっているのに。
馬橋駅から乗り込むと、ちょうど空いていたドア横を確保できた。スクールバッグを床に置き、彩乃はさっそく木曜日恒例英単語20問テストに向けて単語帳を開いた。
fail …は「失敗する」。
「失敗する」かぁ…。
憧れだった高校に入れたことは、失敗ではないというのはわかっている。
だが、自分の合格はまぐれで、この環境は自分には場違いだよな、と入学後1ヶ月で思い知った。
毎朝ある小テスト、授業中にある確認テスト、その度に課せられる膨大な量の課題。
やっとできた友達は、それを涼しい顔でこなしている。
『次は松戸、松戸』
顔をあげると、似たようなマンションとアパートが繰り返し立ち並んでいる。
あと3年、この朝を続けなければならないのだ。
『…お出口は、右側です』
ドアが開き、人の波が彩乃に押し寄せた。単語帳をカバンの中に押し込むと、波に押されるようにしてホームに降りた。
沙織は新松戸駅で計画通りに獲得した席に座ると、じわじわとつま先にかかっていた力が抜けていくのを感じた。やはり、パンプスは苦手だ。
木曜日、顧客との定例会議がある日———癖の強い先方と穏やかに闘う日———沙織はいつもより2cmヒールの高いティールブルーのパンプスを履くのだが、この願掛けが正しいのかわからない。入社2年目なのに、何度練習しても説明はたどたどしいし、会議の場で意見を言えた試しがない。
あー会社行きたくない。寝よ。
まぶたを閉じかけた時、目の端にうっすら、ドア横にしゃんと立つ女子高生が映った。まだ新しそうな黄色い表紙のテキストを繰り返しめくっている。
昔は、電車の中で座れたら、すぐに勉強してたのになぁ。
『まもなく、松戸、松戸です…お出口は、右側です』
ドアが開くと、女子高生が降りた。と同時に、テキストからはらりと何かが落ちた。
少女は気づかないままどんどん扉を離れていってしまう。ヌーの群れのように降りるサラリーマンたちの靴が、落ちた白い物体を器用に避ける。
どうしよう。
もしかしたら、あの子にとって大切なものかもしれない。
もしかしたら、ただのメモ書き程度の紙かもしれない。
せっかく座れた席。ここで降りたら始業時間ギリギリ。
でも。
「すみません、降ります!」
立つ人をかき分けて、今にも電車から落ちそうになっている四つ折りの紙を拾い上げた。荒い息をする沙織の後ろで、ドアが閉まった。
***
「それでね、新京成の乗り換え口に向かってたら、後ろからすごいカツカツ音がして、いきなり腕掴まれてさ。びっくりしちゃって」
「えぇ怖っ。大丈夫だった?」
「振り返ったら女の人で。ぜーぜー言いながら、『これ、落としましたよ』って」
彩乃がいつも使ってる「ターゲット」から四つ折りの紙を取り出した。少し、汚れている。
「何それ?まさか、カンペ?」
「ひどーい。違うよ、これは未央先生がくれた手紙じゃん。彩乃が高校受験の時にさ、塾に自習しに来てた時に渡してくれたやつだよ」
彩乃は折り畳まれた紙を広げた。確かに、そこにはオレンジ色のペンで書いた自分の字があった。
「まだそんなの持ってたの?」
「先生からこの手紙もらった次の日の受験で、今の高校受かったじゃん?だから、これ持ってたら色々頑張れる気がするんだよね。テストでいい点取れるかもだし!」
「…へぇ〜、まあね、彩乃ちゃんには1対1で英語叩き込んだんだから、当然の結果だわ」
「先生、照れてる〜!!!」
「うるさいな、照れてないわ!てか、その手紙拾ってくれた女の人?いい人だね」
「そうだよね、普通紙落としたくらいじゃ拾ってくれないよね、電車降りてまで」
「どんな人だった?」
「髪はショートカットで…一生懸命な感じだった!この人おかげで、今日の小テストもバッチリでした〜」
「ふぅん…それはよかった。
さ、雑談終わり!英語の授業、始めるよ!」
ひぇ〜と言いつつメモをびっしり書いたノートを広げる彩乃が、未央は誇らしかった。
***
授業が終わり、生徒を見送った後、未央は職員室のゴミ箱に直行した。
「朝田、お前今なんかキラキラしたやつ捨てただろ」
塾講師の同僚が訝しそうな目つきで近づいてきた。
「あー…。1週間前に浮気が発覚して別れた元彼が1年前の誕生日にくれたネックレスですが?」
同僚はポカンとしている。開いた口が塞がらない人を未央は初めてみた。
「朝田…お前、バイト先の塾でそんな爆弾捨てるなんて…やべぇな」
「…やべぇっしょ」
同僚のアホ面が面白くて、未央は吹き出した。
1週間ぶりに、大声で笑えた気がした。
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