千葉市美術館__3_

「わからない」恐怖と向き合うこと―「非常にはっきりとわからない」展


画像1

これ、何だと思いますか?


黄色い紙に、「AUDIENCE」とありますね。


下の方はめくれ上がったりしているので、シールでしょうか。


よく見ると、右下に数字がありますね。日付かな?




どこに貼ってあると思いますか?
どうして貼ってあるのでしょうか?
誰が貼ったのでしょうか?







千葉市美術館3 (2)


千葉市美術館の外の柱です。行った人はわかりますね。誰が貼っているのかも、場所から想像がつくのではないでしょうか。「AUDIENCE」がヒントです。






蓋を開けたら、ただ美術館に行った人が貼っただけのシールの集合体です。


最初の画像のようなイメージも、もしかしたらネットで見たことがあるような、イメージ画像と言われても疑問を持たないかもしれません。



しかし、「何だと思いますか?」と言われると、とたんに「何か深い意味があるのでは…」と思いませんでしたか。


美術館という場所と、そこに展示される作品に、
私たちは「何か深い意味があるのでは…」とその「意味」を探そうとしませんか。


この絵は何について描いてあるんだろう…とキャプションを見たりしないですか。





しかし、「どうしてここにシールが貼ってあるのか」については、私もわかりません。

誰がやろうとしたのか、どうして貼ろうと思ったのか、ここに貼ることによってどんな意味があるのか。



わかりません。





「ここまで読んでやったのにわかんねえのかよ!」



と思われるかもしれないですね、すみません。



「わからない」ことは、もやもやしますか。「わからない」を解決するために、あなたは何をしますか。



考える、ググる、人に聞く、など色々ありますね。




しかし、この「非常にはっきりとわからない」展は、考えても、ググっても、人に聞いても、わからないかもしれません。


でもこの展覧会の「無意識を意識させた」という点については、私は「非常にはっきりとわかった」と思うのです。


***

(※ここからはである調で書きます)

目[m`e]非常にはっきりとわからない展に行った


冒頭の黄色いシールは、最初に来館者に配られるシール。私たちは「AUDIENCE」なのだ。


写真撮影が可能なのは、1階のみ。

千葉市美術館2 (2)

事前にネットやテレビで「非常にはっきりとわからない」で検索したが、この写真しか展示が出てこないのはそういうことか、とわかる。

千葉市美術館キャプション (2)

一緒に行った友人が

「ゴミじゃん!」

と言っていたが、本当にゴミみたいなのばかり「落ちていた」。工事中の部屋みたいに周りがビニールに囲われているし、準備の途中かよ、と思うような梱包された箱ばっかり。

しかし、「これも展示の一部」と言われると、なんとなくしっかり見てしまう。

私は、上記の写真のクリアケースみたいなのは、絵画などの下にある説明書き、「キャプション」をいれるケースなのかなと思った。「作品に手を触れるな」みたいな注意書きが、逆さまになって乗っているのが見えたし。


展示の中心となるのは7階、8階で、エレベーターで向かう。今となってはこれがタワーオブテラーみたいなものだった。



7階に到着する。1階と同様、工事中かよ、というような部屋の作り。ここは本当に美術館なのか。私が知っている千葉市美術館はもっと綺麗だったぞ。



「順路」がない。

私たちはどこから見たら良いのだ。なんとなく、人の流れについていく。


最初に訪れた部屋も、工事中みたいな感じだったが、大きい丸い石みたいなのが「展示らしく」壁に掛かっていた。


また、時計の針だけをくりぬいたものが何個も宙づりにされ、カチカチと無機質な音を立てながら動いていた。

その横には不具合ありとされた時計の針が落ちていて、さっきまで誰かが作業していたかのようなスペースもあった。


あちらこちらには、「千葉市美術館 空輸」みたいなシールが貼られた大きな木箱がある。学芸員の授業を受けていた私はなんとなく「美術館の舞台裏」を思い出した。海外から作品を運ぶ際に入れる箱が、美術館の準備室のような所にはたくさんあったのだ。


次の部屋にも、さっきの大きい丸い石の違う色が「展示らしく」飾られ、その奥の部屋には黄色い変な模様の付いた壁があった。



ここまで見て、どうだろうか。感想は、「はぁ、へぇ」である。

わからない。

現代美術がいくらわけわかめでも、これは最高級にわけわかめだ。




頭にたくさんの???を浮かべながら、同階の次の部屋に向かった。


中には、掛軸的な作品と、絵画っぽい作品が、ガラスケースで展示されているのだが、


ガラスケースの中で人が作業してる。しかも、大きな屏風に、薄いシートをかぶせている。


え、人ってあの中入れるの?てか何で隠してるの?


頭は?でいっぱいである。その人は「仕事ですから」みたいな顔をして、黙々と作業をしている。相変わらず、その部屋にも梱包用の木箱が散乱している。


「はあ、へえ」のまま、8階へ向かう。8階も、工事中みたいな部屋である。


部屋の作りは、7階で最初に入った部屋と同じで、展示も似ている。私たちは、7階と何が違うのだろうかと、その辺のゴミをまじまじと観察する。


8階の部屋で異なるのは、さっき時計の針の展示があったスペースが、白いカーテンで隠れていること。そのスペースを、若い女性がほうきで掃除している。さっきの大きくて丸い石の展示も、薄い布で隠されている。


「AUDIENCE」である来館者は、彼らの動きを見逃すまいと、じっくり見ている。掃除をして、カーテンを外して、薄い布をとって、また7階と同じ部屋が表れた。


それだけである。


次の部屋も、7階と同じ作りで、大きな梱包用の木箱を2人の男性がいっせーので運ぼうとしていた。


また次の部屋も、7階と同じ作りだった。さっきと異なるのは、部屋の奥行きがなく、狭いこと。


前の部屋に戻ると、まだ男性達が作業している。1回動かした木箱を、同じ場所に戻した。真剣な表情である。


私たちは「AUDIENCE」であり、彼らの一挙手一投足を見逃すまいと見ている。7階と8階しか展示がないのに、どちらも同じ部屋の作り、同じ展示。異なるのは、彼らの存在だけなのだ。そして、今の私たちにとって、ただ作業しているだけの彼らは「パフォーマー」なのである。


最後の部屋に向かう。

7階と違って、そこでは掛軸はきちんと展示され、薄い布はかかっていなかった。作業中の人はいない。ほらね、そうでしょう。


違いがわかると、安心する、ということに気づく。


「何かまた変わってるかもね~」というノリで、私たちは7階に戻る。最初の部屋も、次の部屋も、その次の部屋も、最後の部屋も、8階と同じだ。ほらね、そうでしょう。部屋自体は同じなのよ。


8階へ行く。同じでしょう。変わっているのは、人の動きによるものでしょう?


最初の部屋、変わってない。

次の部屋、変わってない。

その次の部屋。


私「ここ、8階だよね?」

友人「え、7階でしょう?」


私「え、だって、ほら、さっき来た時、狭くなかった?」

私・友人「え?」



ここは7階と同じ部屋だ。だって作りも同じだ。でもここは8階だ。

わからない。自分たちが何階にいて、何を見ているのかわからない。


こわい。



きっと構造は至ってシンプルだ。私たちが他の箇所を見ている間に、また「パフォーマー」が入って、部屋を動かしたんだろう。わかる。

でも、その時は本当に怖かった。自分が見ていない間に、「変わらない」はずのものが「変わっている」のは、自分が「知らない」「わからない」状態と同じだから。


最後に7階に戻って、「ああ、やっぱり同じだね」って確認をして、友人と私は1階へ降りてきた。


1階には、さっきの「ゴミみたい」と思った空間が広がっている。さっきのキャプションみたいなクリアケースを見て思い出す。「ああ、そういえば、キャプション、なかったなあ」


***

順路もない、キャプションもない。それは、「これを見ろ」という対象がないことだ。


展示みたいに飾られていた大きい丸い石、時間の針が集まったもの、確かに「展示らしい」ものはあった。でも、来館者はたぶん、それらをじっくりとは見なかったはずだ。


その代わりに、よく分からない釘が落ちているのをじっくり見ちゃったり、ただ作業しているだけの人を目で追いかけたり。


もしこれが、「美術館の裏側みせちゃいますツアー」だったら、きっと、私たちはこんなに注意して見ないはずだ。「あー作業してるね」で終わると思う。


美術館であり、特別な企画展である、という「何か深い意味があるはずだ」という思いが、私たちを「AUDIENCE」にさせていた。


ただ、来館者は、少なくとも私は、「わからない」ということがこんなに怖いとは思わなかった。

だから、「わからない」状態を必死に解決しようとして、何が違うのだろうか、と真剣に探す。7階と8階を何度も往復する。


だから、7階と8階に違いが生まれたとき、安心した。



でも、ゴミみたいに落ちていたものに、意味はないかもしれない。もはや、展示のように見せていたものすら、意味はないのかもしれない。

**



テレビ番組である「アートシーン」で、この展覧会を企画したアートチーム「目」の人が言っていた。


「わからないものを、わからないまま受け入れる」


あの展覧会で置いてあったものが意味することは、100%わからない。キャプションはない。誰も解説してくれない。そこはもう「わからない」まま受け入れるしかない。


きっと、普段の美術の企画展だったら、キャプション読んで、絵画みて、「フーン」とわかった気になって、終わっていたはずだ。



しかし、この企画展では、「わからない」なりに、私たち来館者は必死になってその「得体の知れないもの」と対話しようとした。主体的に、「わからないもの」と関わろうとしていた。


この企画展だけに限らない。私たちは、自分の知らないもの、理解できないものに時に「恐怖」を感じる。

だから、わからないものは極力避けて、それでも受け入れざる負えない状態になったら、「この人は○○だから」と言って、わかった気になって、理解するのを諦めようとしてしまう。本当は、そこに意味があるかもしれないのに、。




「非常にはっきりとわからない」展は、「意味があるはずだ」というものに対して、

私たちの「わからない」、「怖い」、でもだから「わかりたい」―

そんな無意識にして意識的な行為の原点に、立ち帰らせる企画展だった。


少なくとも、そこだけは、非常にはっきりとわかったような気がする。


おわり


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