偏差値という指標に意味はあるのか?

 受験の季節になると必ず気になることは偏差値なる指標に意味があるのかということだ。

偏差値は高い学校と低い学校で階級を意図的につくり、低偏差値の学校が必然的に高偏差値の学校に比べて提供している教育水準が低いという風に認識されることに繋がっているのではないだろうか。そしてそれぞれの学校に関する認識に誤解を与えているのではないだろうかと私は常々疑問に感じていた。

偏差値絶対主義は決して生徒や学生を豊かにするとは思えない。

競争意識が生まれることを問題だとは思わないが、高偏差値だから社会的に優れているということにはならない。私はそれを何度も感じてきた。

大学に行かなければ就職ができないわけでもなければ、行かないことが決して悪いことでもない。

学問は学校に行かないとできないわけではない以上、実践知はどこでも学べる。求められる人材は必ずしも学校によって育てられるわけではない。ゆえに偏差値による学校階級は就職において意味をなさない。

これよりもより実践的な資格を有している方がよっぽど価値を感じる。会社は高偏差値の大学を卒業した人間を求めているわけではない。優秀であれば偏差値は関係ないのだ。

 日本の大学は入学が難しく、卒業が簡単と言われる。これでは意味がない。入学がゴールでは学校生活において身になるものが少なくなる。卒業がゴールであるからこそ学生諸君は勉学に励み、知の収集に励むのだ。

大学で何を学び、それは個人にどのような知的興奮を与え経験値として昇華されたのか。ここが学生期間において重要な点だ。ことこれに関しては場所は関係ない。

偏差値の高い学校の方が、実績のある教育者が多いという点で優れているが学生が学ぶという事象自体はどこの学校でも関係なくできる。

オンラインで授業をどこにいても受けることのできる体制は、東大の授業を他大学が講義として買い取り提供することで教育水準の底上げをすることができるようになったということだ。

素晴らしい教育は提供者との提携によってどこでも受講できる。こうすることによって偏差値という指標の意味はなくなる。これからは所属する教員に直接教えを請いたいという思いがその大学への入学動機になると考えた方がいい。

 マニュアル化された授業はすでに時代遅れの産物となり求められていない。最新の学説による知的興奮は電子を通じて提供者と繋がることで受講できる時代になる。

場所も名前も関係ない。学生が今後学校を選ぶ基準はサービスの質であり、教育者の好みであり、教育理念への共感ではないだろうか。

偏差値という指標によってその内面を満足に観察されることのなかった学校諸君は淘汰される運命に直面する。

 入学よりも卒業の難易度を上げ、競争論理の枠組みに学校をあてはめた時、学校はふるいにかけられ既得権益と化していた教育機関は排除され、真に求められる教育を提供する機関だけが残る。これは未来の学生のためであるし、今後の教育者のためでもある。

知の怠慢が淘汰された時、教育関係者一同が再起の時代に突入する。偏差値なる優劣を簡潔に現わすように作られた指標が意味をなくし、競争論理の中に教育機関が飛び込んで初めて日本の教育が新たに生まれ変わるのだ。

Polimos代表 タイガ

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