合理的利己主義人間が生まれる必要性
日本では大多数の人間が14、15歳までの義務教育を経て社会へと羽ばたいていく。その教育課程で道徳という教科を受けていることだろう。この道徳という教科は人々の連帯における「緩やかな」ルール、すなわち良識を教える科目だと認識している。
例えば遊具で遊んでいるときに後ろに他の子が並んでいたらある程度
遊んで、譲る「べき」とか、お年寄りが困っていたら助ける「べき」といったことだ。ここで強調したいのが「べき」という助動詞で、先ほどの例の用法だと義務的な意味となる。
しかし、義務的な意味だとしても、強制力は皆無だ。後ろに子供が並んでいたからといって譲らなければならないということはないし、困っているお年寄りを助ける必要もない。
これが先ほどの「緩やかな」という文字の真意である。個人には良識に従うか、破るかを選択する自由が備わっていてその選択の幅を狭め、公共の利益になる選択を選ばせるように仕向けるのが道徳ないし教育の役割といえる。
だから必ずしもやらなくてもいいことをさも正しいこと、義務であるかのように伝えるのである。といっても私の受けた道徳の授業を思い返してみるとただ日本語の教科書を読むだけで国語の授業と何ら変わり映えのないものだったと記憶しているが、それは道徳の授業の役割を果たしているとはいえないだろう。しかし、良識というのは日々の社会生活で自然と植え付けられていくもので、わざわざ道徳という授業を設ける必要性を私は感じない。
さて、世間的に言う「良識」という言葉を私なりの解釈でもって長い言葉に言い換えるのならば、
「最大多数の人間が自己の判断力に則り多くの選択肢から選び取るであろう答えである。」
そしてその答えは多くの人間が選び取ったという事実を背景に正解として扱われている。この文章はこの「良識」に一石を投じてみようと思った私の気まぐれである。
道徳の授業で習うことは色々あるかもしれないが(私はほとんど覚えてい
ないが)その本質は利他的な人間であれということだ。利他という言葉の意味を広辞苑では
「自分を犠牲にして他人に利益を与えること、他人の幸福を願うこと。」
と書かれている。そしてその対義語は利己的、自己中心的と言い換えるとわかりやすい。つまり他人の存在を顧みず、自分の利益しか頭の中にないということだ。道徳や教育では前者を賛美し、後者を排斥する。
しかし、利他的であれというのはあくまで理想的であることは否めず、この現代社会で利他的な人間はそれほど多くないことだろう。私の想像する利他的な人間の象徴は仏教徒のような修行者か、多くの被災地に駆けつけ、精力的に活動するスーパーボランティアとして名を馳せた尾畠春夫さんのような無償で困っている人のために活動する人々である。
私はこのような人々に対し決して自分には備わっていない精神を感じ、敬意を抱かずにはいられない。しかし、先ほども言ったようにこれはあくまで理想だ。理想とは最終到達地点であり、決して安易な道のりの先に存在するものではない。そこにたどり着ける人間には限界がある。
一家の大黒柱である夫が、妻子のことを慮るのは当たり前だが、赤の他人の
ことまで考えられる余裕のある人間はこの競争社会には少ない。私が言いたいのは利他的な人間を目指す必要はないということだ。
ならば、人間は利己的でよいのか、その通りだ。しかし、私は自己の快楽だけを追求する人間は嫌悪する。ここで一つ例を挙げる。人の信用の問題だ。
ただ自己の快楽のみを追求する利己的な人間は当然他人から信用されない。そのような人間が金銭を借りたい時に手を差し伸べる人間は純粋な悪意を持った人間だけだろう。真に自己の利益を追求するのなら「合理的に」考えて、社会的信用を貶めてはならないと考え至るだろう。求めるのは人間に備わった理性という能力を使い「合理的に」判断し己が利益を追求できる人間だ。そして長期的な合理性を考慮し、行動できる人間は集団に対しても利益を及ぼすことができる。
必ずしも利己的な人間は他者に不利益を与えるというわけではないのだ。さらに得られた利益を自分の知識や、才能を高めるといった利益に変換していくことが理想といえるだろう。
資本主義において利益という言葉は金銭と捉えられがちだが、それだけの意味に留まらない。利益は自己の価値を高めてくれるものの総称であり、価値を高めることは社会的地位の向上につながる。このような人間像を理想としたのが20世紀初頭の思想家アイン・ランドという人物だ。彼女は個人にとって第一の道徳的義務は、自らの幸福を実現することであると述べ、利己的であることの道徳的優越性を指摘した。ランドはアリストテレスの哲学を信奉し、人を人たらしめているのは理性であると考え自己の快楽を求めるだけの快楽主義は理性のない、つまり自己のない利己主義であり、合理的利己主義と区別し、痛烈に批判した。
ランドにとっての自己の価値の指針は
「合理性」
「正直さ」
「正義」
「自立」
「高潔」
「生産的であること」
「誇り」
であり、公共的善や、市民的美徳などの集合的価値を拒否し、ただ個人が合理的な判断を貫くことを崇高と考えた。このような自己完結した頑強な人間像はニーチェが出現を期待した「超人」とも重なる。このような人間が多く出現すれば人間の連帯の最大単位である社会もよりよい方向へと導けると思っている。
さて、他人のために生きることが道徳的義務であるという利他的な考え。
この良識に疑問を呈してみたがどうだっただろうか。この文章に興味を
抱いていただけたならば、アイン・ランドの著作「水源」や「肩をすくめる
アトラス」を読んでいただければと思う。最後に「肩をすくめるアトラス」
の登場人物の台詞を引用して終わりたい。
「己の人生とその愛によって私は誓う
私は決して他人のために生きることはなく
他人に私のために生きることを求めない」
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