実生活での指導(2)「リーダーシップ」「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第27回

 創価学会に対して批判的な人を含めても、池田の傑出した指導性に対して、異論をさしはさむものはいないだろう。池田をよく知る央忠邦氏は、その著「池田大作論」のまえがきの中で「数多くの組織の中で、数百万以上の成人を含め、すべてを弟子たらしめる人物は、わが国の歴史では稀だろう」と述べている。私も同感である。
これまでも、制度、権力、武力など物理的な力関係を背景として、指導性を確立した権力者は多い。しかし、数百万という多くの民衆から、ただ漠然と人気があるというようなものではなく、その一人一人に心から"人生の師“ と慕い尊敬され、共通する使命の指導者として、絶対的な信頼を受けたような人物は聞かない。
 創価学会員にとって池田の言葉は、片言隻語にいたるまで、貴重な教訓であり指導である。だから、池田の本部幹部会などにおける指導(講演)は聖教新聞に詳しく報じられるし、出席した幹部から、座談会などを通じてロコミで一般会員に伝達されてゆく。会合によっては講演のテープを聞く学会員の胸のなかに池田の指導が深く刻みこまれる。
池田が、聖教新間に再び筆をとっている小説「人間革命」続編は、学会精神の在り方を示すものとしてむさぼり読まれる。池田の書は、もれなくベストセラー。毎晩、全国のあちらこちらで、何千、何万の家で開かれる大小さまざまの座談会ではまた、池田に会う機会に恵まれない多くの人たちが、池田をめぐる話題に目を輝かせる。池田の指導は「先生の指導は、誰にも納得ゆくものです」とうけ入れられる。学会員の池田に対する支持の強さは、圧倒的というにふさわしい。この素地のうえに比類なきリーダーシップが確立されているのである。

下部組織の反映
 それがゆえに、池田の指導性を誤解する向きが外部においては少なくない。創価学会ファッショ論などは、その最たるものだろう。かりに創価学会の組織を動かす運営上の決定を迫られる場合があるとする。
下部組織の会合などにおける学会員大衆の意向が、上部に反映され、集約される。それは創価学会の組織自体、上からの幹部組織でな 、下からの大衆組織の体質をもつからだ。したがって、最終的に池田の指導性が発揮されるとしても、そうした過程を通じて、学会員大衆の動向がよく見きわめられてからのことである。
 池田は「大衆の英知」を信ずる行き方をとる。だから、会員大衆の動向を無視して、一方的に方針を打ち出すような押しつけはとらない。池田はそういう上意下達を最も嫌悪する人間である。だいたい、池田がもしも、権力者にありがちなムリなリードをするようであったなら、今日のようなリーダーシップはなかったに違いない。

指導と活動目標
 とはいえ、学会員に対する池田の影響力ははかり知れないものがある。もちろん、数百万の人間をたちどころに改造するなどできない相談だが、それでも、いろいろな面にわたる池田の指導は、弟子たちにとっては自発的な努力目標となるのである。しかし、その多くは安易な道ではない。というのも信心自体、きびしい仏道修行だからだ。
 早い話が、学会員たちはレジャーの時間を犠牲にして、学会活動に 動き回り、人の反発を覚悟の上で折伏に精力を使う。選挙ともなれば、同志を送り出すために、献身的な努力を傾けるのである。なぜなら、「 幸せになるために信心するのではなく、使命を果すことによって幸福になれるのである。使命を果すという一念のない限り、ほんとうの幸せはない 」( 池田の指導)からである。そしてそのひたむきな努力の累積が、徐々にではあっても、やがて池田の指導する方向に近づかせることは間違いない。
 そうであってみれば、努力の過程にある会員のたまたま行き過ぎた行為のみを取り立てて創価学会全体を推し測るのは、正確な見方とはいえまい。それよりも全体の太い流れを把握するためには、根源の池田の指導が、はたしてどのようなものかに目を向けることが必要だろう。