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過去を知ること、過去を知らないこと

 いわゆる、「部活のOB・OG団体」というやつに所属している。

現役と強い関係を持つわけではない独立した団体だ。(現役との関係、持とうと思えば強い関係を持つこともできるが、アンオフィシャルなものであるし、私はそれを選択していない)

しかしそこにいるのは、高校時代からの知り合いばかりである。

歳が離れた先輩も、その先輩の高校時代を知っている人間が沢山いる空間だ。

そこでは、美しくも醜くも無かった過去の思い出が、人生経験を経て変化していく様を間近で眺めることができる。

 過去は補正がかかるから良い。

でも補正は必ずしも良い方向にかかるとは限らない。

補正がかかった結果、その空間は人を排除するものになることが容易にあり得る。

 気になる先輩がいる。

恋愛という意味ではない、空間によって不可逆に排除されそうになっていることへの心配だ。

「困った人」としてではなく扱われる先輩の姿、私は知らない。

でも「困った人」ではない先輩もいるはずで、少なくともいたはずではある。

「困った人」になってしまったのは、先輩のせいなのか、それとも先輩以外のせいなのか。

何も分からない、人間関係って捨象すると本質から遠ざかっていく感じがある。



 同じ人間とい続けることはありえない。

都市社会、流動性の痛みはあるが、おかげでぬるい関係を続けることを許している。

周りの皆が私の小学生時代、中学生時代を知っていたらと思うとぞっとする。

親にも彼氏にも話していないことあるし、誰だってそうだろう。

そのぬるい関係の中で時々、訥々と語られる過去は、より一層に際立って美しいものだと信じている。

 私もいつか、所属している団体から排除されるのだろうか。

それは「困った」先輩のように明白なやり方でなくても。

それまでは過去の残滓が溜まった団体にいても良いと思う。

少なくとも私は、それなりにシアワセな補正をかけて過去を見ているのだ。


追記

「男性の恋愛観に対する深い猜疑心」、過去の記事でもほんのり書いたが、少しだけ、何も跡形もないような形で打ち明けてみた。

何も変わらなかった。

それでよく、それが嬉しかった。

こうやって人間は自己開示を覚えるのかもしれない。

流動する社会の中で手を繋ぐ方法、ちょっとだけ見えたはず。


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