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動かなければ、淀んでしまう

仕事柄、体をまったく動かさずに作業を進める時期がある。自宅が作業場なので起きて数歩歩いたところにテーブルがあり、MacBook Proを持って来て起動させたらすぐ仕事を始められる。下手をすれば朝座ったイスから数歩離れたトイレ、数歩離れたキッチン、数歩離れた玄関くらいの行動半径で1日が過ぎてしまう。

書くのは自分がまったくの門外漢である「科学最先端」だったり、大改築をやり遂げたお客さんの「浮き立った気持ち」だったり、社会問題に対する「大勢の意見」だったりする。項目だけ並べると、結構、頭の中はいろんな方面に動いている。でも身体はビタ1mも動かないままで何時間も「あーでもない、こーでもない」をやっている。

仕事としては大変ありがたい。ただずっとこのままで大丈夫かな、という心配はちょくちょく頭をもたげる。

私の身体はこの部屋の空気すら動かしていない。文字という抽象的な概念や見知らぬ世界とは向き合っているけれど、皮膚感覚や空間認識はほとんど働いていない。やばい。

想像力というか、創造力がある人ならこんな状態からでも人の五感を動かす表現が湧き出てくるんだろう。……いや、そうでもないか。冬に参加した作家・絲山秋子さんのイベントでは、絲山さんはいかに足を使って場所に行き、自分を動かし、人の話を聞き、話を組み立てたのかを話していた。その土台から作家の表現や構成が生まれている、らしい。

ということは、凡人である自分なんて、なおさら動かないと何も生まれないじゃないか。

よく一人暮らしのお年寄りは誰とも話さず、表情も硬くなって、ますます外へ行きにくくなると聞く。あれと同じだ。頭の中でどんなに偉いことを考えていても、ものすごい思いつきでニヤニヤしたとしても、10歩移動してドアを開けて外に出た人のほうが経験値を上げられる。何も創造的なことや仕事に結びつかなくても、歩いてドアノブの感触を確かめて、腕の筋肉を使ってドアを押し、外に出て違う匂いをかいだ人のほうが広いところへ行ける。脳みそが受け取る刺激の量が違う。

自分の根っこでもそれを求めているのだと思う。ホリエモンの本を見ても、寺山修司を読んでも、ずっと目が惹きつけられるのは「動けよ」と説いている場所だ。動かなければ、淀んでしまう。この危機感が自覚できるうちにもっと外へ出よう。

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