欲望の時代の哲学2020-欲望の奴隷からの脱出 後編
おはようございます。大脱出プランナーのアルキメデス岡本です。
さて今回は、前回の続きです。
新型コロナウイルスの影響でこれまでの資本主義が限界に直面し、これからの社会には新たなシステムが求められています。
格差や倒産、失業者の増大が膨らむ中、生存の保証がない状態の中で生きなければならなかった人類は、そもそも何故そのような問題に直面したのでしょうか?
世界、そして日本のライフスタイルが大転換を迎える中、天才哲学者ガブリエルからのメッセージは大きなヒントになりそうです。
資本主義には悪の潜在性がある
資本主義は労働の役割分担を利用して、「一人の人間が、もう一人が何をしているか知らない」という事実を価値に変換します。それが資本主義のビジネスです。あなたが何をしているか、相手は知らない。それがあなたのアドバンテージになります。
この人は自分が何をしているか知らないという視点から、あなたはいくら金額を請求することができるか計算します。これが資本主義の「噓」です。資本主義そのものが不透明なシステムなのです。資本主義に透明性が担保されることはありません。でないと機能しないからです。
だから資本主義そのものは必ずしも悪ではありませんが、資本主義には、「悪」の潜在性があるのです。
それを理由に、多くの民主主義派の理論家が「人を逆の方向に引き込もうとする」と資本主義を批判します。民主主義においては透明性が重視されるからです。でも、そんな批判は必要ありません。必要なのは、生産状態を左右する資本家に、民主的な思考訓練を受けさせることです。有名な慈善家であるビル・ゲイツやジョージ・ソロスのようなレベルではなく、中間レベルの資本家です。
倫理資本主義
たとえば、大きな国営企業が部を一つ設けて倫理学者を数名雇っていると考えてみてください。現状とは違うモデルになるでしょう。ゲーム理論を使って消費者と生産者のギャップを利用しようとする経済学者ではなく、倫理学者です。トヨタにプロフェッショナルの倫理学者が30人いることを想像してみてください。
エコカーの生産台数、車のデザイン、どの業界の株を買うか、こういった判断を倫理学者が下し、報告書をCEO(最高経営責任者)に提出するとします。資本主義は、完全に変化するでしょう。倫理学者たちが「ああ神よ、これを実行すると、私は200もの人間を殺めてしまう!」と叫ぶからです。
「これを実行すると車の価値が上がるが、サプライチェーンの末端にいる者は死ぬ」という可能性は、今は完全に隠されています。
実際にはトヨタに倫理学者のチームがいることはないので、この可能性が表に出ることはありません。いるのは経済学者ですが、経済学者は誰かが死ぬかもしれない、という可能性を考慮に入れていません。
我々は倫理学者が介在するような構造を持つべきです。倫理資本主義は完全に可能です。このことを今まで提案した人がいない理由は極めて単純で、どの倫理学者も資本主義を批判しているからです。
資本家を含めて我々は皆、資本主義は悪にならざるを得ないという前提に立っているからです。でも、本来は資本主義は悪になる必要はありません。これは近代化の偶発的な副産物なのです。
だから倫理資本主義と呼ばれるような、他のシステムが必要なのです。私が提案するモデルは、co-immunism(共に免責し合う主義)です。
ベーシックインカム
いわゆるこれは、ベーシックインカムを導入して生存の保証をお互いにしながら資本主義経済を回して行くという意味だろう。
ベーシックインカムについては、以前から理論としては存在していたが、日本で実際には導入されては来なかった。しかしながら、新型コロナウイルスの危機によって資本主義が破壊され、生存の保証を奪っていく現実に直面し結果、各国では真剣にベーシックインカムの導入を検討し始めている。
果たしてこの制度はどこまで効果があるのだろうか?日本でも導入は進むのだろうか?
前澤社長のひとり親基金などは限定的ではあるが、いわゆるベーシックインカムの一部であろう。現に本人もベーシックインカムについての社会実験であると公言しているので、日本の中では最も倫理観の高い実業家であると思います。今後、この社会実験がどこまで拡大していくのか注目です。
未来を決める自由意志
生まれながら今までの社会のルールに否応なしに従い生きてきた我々人類は、新型コロナウイルスという未知のウイルスの出現によって、社会システムを根本から見直すチャンスを得た。これまで誰かが作った既存のシステムの中で不満や疑問を抱きながら生きて来ました。実際にこれまでの資本主義は、いかににして金儲けするかという新自由主義のイデオロギーが世界を支配して来ました。その中で倫理に反する行為も正当化され続けて来ました。その問題を見過ごす事で結果的に今その反動が何倍にもなって帰ってきた訳です。
つまり、倫理や自然の中でバランスよく循環させなければ、経済活動も社会活動も上手く機能しないという事です。
これまでのグローバル資本主義の根底には、脳科学、すなわち人間行動全てを科学で証明出来るという「神経中心主義」が根ざしていました。それは人間の思考や意識、そして精神は空間や時間の中に存在する物と同一視できると考え、その場所を特定しようと努めています。その結果は何かといえば、思考も意識も精神も、すべて脳という物に還元される、ということにほかなりません。でも、そんな考えは「イデオロギー」であり、「誤った空想の産物」にすぎない、というのがガブリエルの主張です。
「神経中心主義」と呼ばれるこのイデオロギーは、次のように主張します。「「私」、「意識」、「自己」、「意志」、「自由」、あるいは「精神」などの概念を理解したいのなら、哲学や宗教、あるいは良識などに尋ねても無駄だ、脳を神経科学の手法で進化生物学の手法と組み合わせれば全てが解決できる」と。彼の目的は、この考えを否定し、「私」は脳ではないと宣言することにあります。
その拠り所となるのは、人間は思い違いをしたり非合理的なことをしたりするという事実であり、しかもそれがどんな事態なのかを探究する力をもっているという事実です。これこそが「精神の自由」という概念が指し示すことであり、「神経中心主義」から完全に抜け落ちているものだとガブリエルは言います。
したがって、人工知能が人間の脳を超える「シンギュラリティ」に到達すると説くAI研究も、科学技術を使って人間の能力を進化させることで人間がもつ限界を超えた知的生命を実現しようとする「トランスヒューマニズム」も、「神経中心主義」を奉じている点では変わりなく、どれだけ前進しても決して「精神の自由」には到達できない、と彼は力強く主張するのです。
矢継ぎ早に新しい技術が登場してはメディアを席捲し、全体像が見えないまま、人間だけがもつ能力など存在しないのではないか、人間は何ら特権的な存在ではないのではないか……といった疑念を突きつけられる機会が増している今、哲学にのみ可能な思考こそが「精神の自由」を擁護できるのかもしれません。
私達の住む地球も自然生物と自然環境のバランスの上に成り立っている、更には宇宙全体の中でバランスを取っているのです。人類という生命体はその中の一部であり、地球環境と共生を図りバランスを取っていかなければなりません。つまり、私達人類の未来は、この地球、そして宇宙といかに共存していくかという「意識」にかかっています。
意識とは
脳の事について語っていると避けて通れないのは意識についてです。意識についての哲学は最も考えていくべき分野です。私たちは朝目覚めて意識がはっきりしてきます。日常的に生活していると多くの活動(内臓の働きや瞬きなど)は無意識であり、意識することはごく僅かです。意識は自分にしか認識できません。意識についての事実は人には意識があるということについては実際のところ反論できない、ということです。意識と自己意識は密接に関係していて人間の感情世界のほとんどは自己意識です。
その本質は志向的意識と現象的意識が折り合わされていることにあります。私たちの前に現れる時には評価が下されています。この土台があるからなぜ私たちの倫理的な価値が感情世界と結びついているのかを理解できます。他者が意識を持っているという意識を持ち、日常的に絶えず新たに調整し直すべきシステムとしてこのシステムを体験しているから私たちは倫理観を持つことができます。
結局私とは誰で何なのか?
「私」は哲学的概念で、自分自身を表す役目を果たします。私を意識することで体験し、感じることができます。私ということを考えている時だけ私で考えるのをやめた時は私ではなくなるかもしれない、私とは考える実体です。私は脳でも遺伝子でもありません。脳は「私」が巻き込まれている人間活動が存在するための必要条件です。
私たちの意志は本当に自由なのか。全ての決断は既に脳できまっているのではないか、と昔から考えられて脳研究が進み、事実私たちがどう決定し、人格形成、その事に影響を与える要素は沢山存在することが分かっています。意識的な決定をしているとされるものの多くが神経レベルで無意識のうちに準備されているのは事実です。このことは脳が私たちを操っている事になります。
脳科学者ヴォルフジンガーがこの考えを「神経回路網は我々を拘束する」という論文で語っています。ベテランドライバーは運転法規の事を考えながら運転しませんし、外国語もペラペラになると文法はいちいち考えません。無意識のうちに決定されています。神学的決定論ではマルティンルターも1525年「奴隷意志論」で我々のなす事すべて、起きる事の全てはたとえ我々の目には変えられるように映り、偶然に起きるように映っても実際には必然かつ不変に起きるのだと記しています。
それに物理的決定論では物理的現実の全てが素粒子から構成されている以上我々は自由ではありません。神経決定論では私たちの脳で進行する無意識の神経プロセスは決まった神経回路網に淡々と従い意識的にあらゆる決定が下される前に種々の決定を下します。スピノザも私たちが自分を自由だと考えるのは全ての出来事に必要な条件を何も知らないからである、というこれらの考えに著者は不満足です。なぜなら、もしそうなら、私たちの自由の本質は私たちはあまりにも馬鹿なので本当は自由でないことを悟れないところにある、ということになるからです。出来事の中には行為者が関わることで成立するものがあります。そのような出来事には固い原因ではない、いくつかの条件があります。ですから行為の自由があるのです。私たちは自分の欲することを為すことができるのです。
人類には終わりがあります。私たちは大きな進歩をしてきましたが、さらに進歩するには自分たちは精神をもたず、人間でもなければ自由ですらないという考えを止めることです。科学で全てが解明できるという考えと物質主義をやめなければなりません。やがて訪れるユートピアなどありません。私たちの生きる現代よりも自由を促すのに原則としてふさわしいポスト〜時代などありません。未来になっても私たちから自由を奪い取ることは誰にもできません。人間の最大の敵はAIなどではなく人間自身です。ユートピアのような未来を夢見るよりも私たちは今ここにいる、それが全てです。私は脳ではなく、徹底的に自由であり、全ての哲学のアルファにしてオメガは、自由である。ここに高らかに人間の自由を宣言します。
本書は前著「なぜ世界は存在しないのか」に続き三部作の二作目です。最先端の哲学なので解釈するにはかなり難解なロジックで基本的な哲学などを前もって勉強してないとほとんど理解できないです。しかし21世紀の哲学の最先端を感じることはできます。
欲望の奴隷からの大脱出
それを決めるのはあなたの自由意志だ。
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