ソラマメに「せい」を感じる
ソラマメの時期が、終わろうとしている。
ひと月前くらいから直売所に並び始めたソラマメは、まるで十代の女の子のように、あふれんばかりのフレッシュさで鮮やかな緑色を輝かせていた。
本格的な旬を迎える前の、「はしり」の野菜は気持ち値が張る。
その上ソラマメは、その立派な鞘からすると拍子抜けしてしまうくらい、ふたつぶ、みつぶほどしか入っていなかったりするから、
私はちょっとだけ悩むふりをしたあと、確実に買い物カゴに入れ、家に帰るなりさっそく塩茹でにした。
そこまで塩を効かせていなくても、豆自体が持つ濃い味と、あの独特の香り、そして芋にも似たホクホクとした食感で、口の中が幸福でいっぱいになる。
もし神様が、限界までシンプルを追求した究極の料理を作ったとしたら、こんな感じじゃなかろうかと想像を膨らませたりした。
それから少し後、旬のピークを迎えたソラマメは、私が直売所に行くたびに、まぶしかった緑色のトーンを少しずつ落ち着かせていき、袋に入っている量に反比例して、その値段も下がっていった。
消費者としてはありがたいはずなのに、私はどこか切なさも感じていた。
先週ソラマメを買った時、今年はこれで最後だなと思った。
私にとって今年最後のソラマメを、最初と同じく塩茹でして食べることにした。
鞘はもう茶色に近かったけれど、その中で、羨ましいくらいふかふかのベッドに横たわるソラマメは、変わらない瑞々しさを保っていた。
茹で上がった豆をお皿に移し、家の中の全ての音を消して、ソラマメと向き合った。
ソラマメの形は、一見つるんとしているようで、よく見ると案外複雑な形をしている。現代アートのように、角度によって男性、女性それぞれの性を感じる瞬間がある。
全体の形も、背中を少し丸めた胎児のよう。表面の緩やかなおうとつが、一層リアルに生を感じさせた。
ソラマメの皮は、目をつぶって触れたらビニール素材かと思うほどに、厚みがあってしっかりとしている。それをさらに、あの立派な鞘で包んでいるのだから、この植物の中に、大切なものを守るという確固たる意志すら感じる。
子どもの頃に観ていたアニメのドラゴンボールには、仙豆という豆が出てきて、確かそれを食べると、驚異的に体力が回復する設定だったと思う。
数えるほどしか食べていなくてもお腹が満たされて、気力が満ちてくる。精がつくってこういうことかと実感する。
外に出ない休日をいく日も過ごす中で、見ているようで見ていなかったこと、感じているようで本当は実感がなかったこと、考えているつもりでただ受け流していたことが、驚くほどたくさんあったことに気づく。
私は無意識に自分を忙しくする癖があって、以前は休みの日も予定を詰め込んで、誰に強制されるわけでもないのに、タイムマネジメントに勤しんでいた。
予定通りことを進められることが、ゲームをクリアするみたいで快感になっていた節もある。
だから、ソラマメのことだけを、こんなにも語るなんて、ちょっと前の自分が見たら、なにやってんだと呆れて笑うかも知れない。
でも、面白いことを外に求めていたときより、日常の中に面白さを見出している今の方が、「生きている」という感じがする。
忙しさで何かを埋めようとしていた自分を、私は心の中で、静かに見送った。
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