国語力は全ての学習の基礎ってはなし
3月、卒業式が終わったと思ったら、すぐ高校入試。息つくまもない。
昨日と今日は高校入試の採点日だった。採点しながら、わだが思ったことを書く。
国語力がないと数学もできない
わだが今年採点したのは国語以外だ。国語でなない教科を採点して感じたことは、「質問と解答が合っていない」ことが割とあるということ。
つまり、問題そのものが解けないとか間違ったというよりは、そもそも質問の意図や何を質問している内容が読み取れていないと感じた。
まず質問がきちんと読み取れなければ、当たり前だが正確な答えを出すことはできない。
つまり、国語力がないことが国語以外の教科ができないことにも繋がる。薄々分かってたけど、今回改めてそうだと思わされた。
そんなことを考えていたら、たまたまこの記事を拝見した。とても共感できるし、面白い。
対話と読書が足りない
この記事にあるが、対話と読書が減っているのでは、と。確かに核家族化が進み、ジジババと同居せず、父母は共働き。ITは常に進化を続け、スマホやタブレットがあれば単純で分かりやすく面白いメディアが見られるし好まれる。
そうなると、現代社会において、対話や読書量は減るのは自然なこと。
そこにどう立ち向かっていくか。
読書しなさいとか必要だって言うのは簡単だけど、主体的に前向きに読書するようにどうやって仕掛けるか。
対話する時間や余裕をどうつくっていくか、家族以外の他者と対話する場面をつくれるか。
が大事な気がする。
むだ話が思考を深める
わだの妄想のもろもろは他人との会話で生み出される。他人への興味が割と強いわだは相手の「なぜそれが好きなのか」「なぜそう思うのか」ということが気になるし聞く。それが行き過ぎてか、過去には「何太郎(おそらく何故とか何を言いまくる人のことを指している)だよね」と知り合いに言われたこともある。
他人との会話から、他人の価値観やものの見方を知れるし、その知識や話から「もっとこんなことができそう」「こんなことがやってみたい」と思う。思考が深まる。
むだ話って、ふざけたりもするし、いい話言わなくちゃとか有益な話をしなきゃってプレッシャーもないから結構面白い話が聞ける。学校で生徒に書かせる感想なんか、だれでも書けるようなおりこうさんな定型文も結構多い(だから、たまに尖った感想あるとおっとなる。先生によっては嫌がるかもしれないけど、わたしは割と愉快だなって思う(笑))けど、むだ話ならそういった真面目な回答である必要がない。
だから、むだな話をする余白や余裕が必要だと思う。
自分の考えを述べさせる、自分で選ぶことの大切さ
現在そんな「何太郎」なわだも、過去は自分の意見など何もない「無太郎」だった時代が20代半ばくらいまであった。
大人の空気を読む子どもであったことが原因だと思う。自分が何をしたいかより、まわりがどう思うかが優先だった。
これは、親などのまわりの大人の言葉がけによる影響だと思っていて、「〇〇しなさい」「〇〇してはいけません」「〇〇が当たり前だ」といったことを言われることが多く、ただ怒られないように過ごしていたら、自然と「無太郎」になってしまった。そして、他人の意見に左右される人生だったから、他責思考だった。
わだは両親との関係が決して悪いわけではないし、産み育ててくれたことに感謝している。父と母もはじめての子育てに必死だったと思う。しかし、身近な大人の声がけ1つで知的興味や思考力、読解力が変わってくると思う。
この声がけは、学校での学習、特に総合的な探究の時間などで教師側にも必要とされるスキルと感じている。
東洋経済オンラインにあるこのドラゴン桜の記事もまさにこの内容。非常に納得。教育関係者や子育て中のひとはぜひ見て欲しい。
「何がすきなの?」「何故そう思うの?」など、価値観をおしつけず、子どものアイデンティティを形成したり、思考を深める声がけを先生として地域の大人として、実践していきたいと思う。
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