Aurelith aphorisms Ⅰ
0.この世の根源に、何を求めるか。神か、λόγος か、意志か。選んだものが何であれ、それらが力になるときは必ず来る。己の内にて、丁寧に意味づけをせよ。そうすることで、足場から崩れ落ちるような揺らぎが来ようとも、きっと堪えることができる。
1.喜ばしきことは何であるか。それを考えずして、幸福を享受することはできない。しかしまた、各人にとっての幸福は、それぞれに纏わる肉体の虚像に過ぎない。我々は、虚像を超えたところにあるλόγοςの幸福を享受するよう、努めなくてはならない。
2.目の見える人間は、見える喜びを忘れ、耳の聞こえる人間は、聞こえる喜びを忘れる。同様に、舌の肥えた人間は、日々の食物の美味しさを忘れ、裕福な人間は、上昇の喜びを忘れる(彼らの場合は更に、下降を恐れる)。結局、欲望は己を滅ぼすだけであり、幸福を得たいのなら、虚空を喜ぶほかない。
3.恥を捨てることだ。そうすれば人は、「私」に注目しなくなる。私が捨てた恥にこそ、皆は興味を持っているのだから。
4.忘却は浄化である。感動は、初めての体験において最も味わえるものであり、それ以降では薄れてしまう。薄汚れた経験の世界から、忘却は我々を解放してくれる。心置きなく忘れよ。大事なことはまた何度も覚え直せばよい。
5.普遍性からの逃走。個々の事例に対して誠実に対処すること。全体を包括するような強固な言葉は、むしろ我々を混乱させることがある。
6.装飾は威嚇である。「自らをどう扱おう」という動機は、後から作られるものであって、最初は誰もが、「人からどう見られよう」という虚栄心に操られて、装飾を始める。
7.魂は存在する。しかしそれは、身体と別に存在するわけではない。常に身体と共に備わっている。現に、身体の綻びは魂を蝕み、魂の怠慢は身体の悪化を引き起こすはずだ。どちらかのみを優先することは、ひどく愚かしいことであると言わねばなるまい。
8.明晰に答えを出さぬことだ。己という王に、いつも無能な家臣を侍らせることだ。答えを出せぬ木偶の坊のように、いつまでも考え続けることだ。それが真の賢者に近づく方法である(かもしれない…?)。
9.個性など、差異でしかない。差異に固執しないこと。仮象の幻想から逃れること。しかしまた、彼らは知っている。仮象に厚みを持たせる術を。彼らに惑わされると、途端に、私程度の在り方は乱れてしまう。彼らの巧みさに、警戒しなければならない。