「死ぬ幸せ」弁論大会 原稿 2018/12

政策提言会と化している現在の弁論は、私の肌には多少合わないものでして、今から私が話すことは、他の方のものほど現実的な話ではございません。ですが、問題の重要度としては引けを取らないものだと思います。この弁論が、皆様の考え直す機会となれば幸いです。
私が主張したいのは、安楽死制度についてです。なんだそんなことか、とお思いになる方もいるでしょう。あまりに繰り返されてきた議論だとも思います。しかし、私の主張したい安楽死はそれに留まるものではありません。私がこの場で主張したいこと、それは「健康な若者」さえも安楽死できる制度の認可です。
そもそも皆さん、現状の安楽死が正当化されるために必要な要件を、何だかご存知でしょうか。それは
①、不治の病であること。
②、医師による処置であること。
③、肉体的および精神的苦痛が、特に主観的に見て耐えがたい状態であること。
④、本人による、ある程度持続的な、安楽死への意思表明がなされていること。つまり一過性のものではないこと。
⑤、その方法が倫理的にみて妥当なものであること。
の5つだとされています。私は前項の内、最初の2つはその条件から外してもよいと思います。1つ目の「不治の病であるかどうか」は、本人の「苦痛から逃れたい」という願望より優先されることではないし、2つ目の「医師による処置であるかどうか」は、定められた手順さえ踏めば、なくしても問題ないと思います。制度さえ作れば、医師以外の人でも、いっそのことロボットが処置を行っても構わないのではないでしょうか。AI技術がめざましい発達を遂げている今日、ロボットが〈介錯〉を行えるようになれば、人を殺さなければならない、もしくは自殺をほう助しなければならない医療従事者の精神的負担も発生せずに済みます。現代の制度における安楽死実現への壁は、必要以上に分厚すぎるものなのではないでしょうか。

話を性急に進めすぎました。私がまず論ずるべきなのは、自殺をやめさせたい、というような人の主張について、それのどこが適切でないかを確認することだと思います。
例えば、自殺を望む人に対して、「もう少しで道は開ける」という人もいると思います。確かに、なにか山を乗り越えれば、状況がいい方向に変わるということもあるでしょう。ですが、今が辛いことに代わりはありません。いつか必ずよくなるから、という理由でそこから目を背けてしまったら、何かを誤魔化してしまうような気がしてならない。その言葉一つで誤魔化しきれるような苦しみだとも限らないでしょう。もう山を降りたい人だっているはずです。だったらもう、降ろしてあげればよいのです。なにも引きずってまで連れていくことはないと、私は思います。
また、「まだ先は長いじゃないか」という人もいるでしょう。ですが、未来に幸せが約束されているわけでもありません。普通に生きている人であっても、「一寸先は闇」とか、「五里霧中」とか、多かれ少なかれ先のことに対して不安を抱えながら生きているはずです。その不安に押しつぶされてしまう人が出てきたって、なんらおかしなことではないのです。ですから、そういう人を諭すときに限って、「未来は明るい」というようなことを持ち出すのはやめていただきたい、と私は思います。
加えて、倫理的、社会的な問題点を指摘してくる人もいると思います。例えば、「経済的困窮を理由に安楽死を選択せざるをえない人々が出てくるのではないか」というような意見も出てくることでしょう。「そんなことに力を入れるより、死に追い込まれる人が増えないよう、社会福祉を充実させたほうがよい」と。しかし、社会福祉を充実させることと、安楽死制度の認可をすることは完全に別問題です。社会福祉を必要としている人と、安楽死を望む人たちでは、そもそも救済の対象も内容も違います。これらの問題はむしろ、安楽死制度を実現した世の中で、そういう事態になってしまわないよう議論されるべきなのであり、安楽死を後回しにしてよい理由にはなりません。
また、実質的な「人殺し」がまかり通る世の中ならば、医療費の削減などを理由に、障害者などの、社会的立場の弱い人々が殺されてしまうのではないか、という指摘もあるかもしれません。しかし、「生産性のない人間には価値がない」という文脈がたびたび出てくるのは現代でも同じであり、むしろ、そういった立場の人々に、手を差し伸べられるような、懐の深い社会づくりが、安楽死制度の実現とともに進められるべきだと、私は思うのです。

何を言っても、死にたい人は死にたいのです。「死にたい」という深い絶望の渦中に居る人たちに、どんな言葉を投げかけても、自殺へと向かう人は必ずいます。どうせ自殺をしてしまうのであれば、いっそのこと安楽死できる環境を整備した方が、本人にとっても周囲にとってもいいはずです。現代における代表的な自殺の手段として挙げられるものは、首つり、睡眠薬の過剰投与、飛び降り、線路への侵入、練炭自殺といったものです。どれも周囲に多大な迷惑が掛かってしまい、かつ本人にとっても身体的な苦痛を伴うものばかりです。確かに、周囲の働きかけによって自殺を思いとどまることもあるかもしれませんが、実際に自殺を止めるのは容易なことではありません。そうなってしまうくらいなら、安楽死できる場所を、作った方がよいとは思いませんか。

少し話を変えましょう。正確には「嘱託殺人」という行為に当たりますが、一昔前の安楽死は、激しい痛みを伴う病気を患った終末期患者などの訴えを主な理由として、法の穴を抜ける形で執行されていました。ですが、現代の医療現場では、「緩和ケア」が非常に発展しており、これまでのような、痛みを理由に安楽死する人たちはぐっと減っています。時代はいわゆる「心の病」に切り替わりました。そうなると次に問題となってくるのは、「心の緩和ケア」です。薬漬けにしてでも、「自殺したい」という心を矯正してあげることが正しいとされています。しかし、ここに考慮すべき問題があるのではないでしょうか。果たして、心を〈ねじ戻す〉ような強い薬で、死にたいという人を〈憂き世〉に引き留めようとすることは、本当に彼らの幸せになるのでしょうか?私はそうは思いません。本人の辛さを無視して、それを誤魔化すことの、なんと無粋なことか。「心の病」は病ではないのです。私は、彼らが死を選択することもまた、一つの人生の答えであると考えます。それがどんな内容であれ、彼らが必死に頭をひねって出した答えであることには違いありません。だというのに、それを尊重しないというのは、彼らの尊厳を踏みにじっていることと同義なのではないでしょうか。

フーコーではないですが、彼らを「病人」だと決めつけたのも、社会の大多数を担う「常人」です。彼らを彼岸に置いて、自分たちの方が正しいと思っているなどとしたら、笑止千万。あなたは立派な〈大衆教〉の狂信者です。実に視野が狭い。この多様性を謳う現代、もっと色んな「人生」の形があってもよいのではないか、と私は考えます。
ここまで様々なことを言いましたが、私は何も、制度が実現することで、死を選ぶ人が増えて欲しいとは思っていません。むしろ、死が身近になれば、生きることの意味がはっきりしてくると私は思います。どうせいつか死ぬのは分かっているのに、それについて考えようとしない。向き合おうともしない。そんな人が現代には多いように感じます。また、時代が変われば人も変わります。ひとつの生の在り方として、きっと未来では安楽死が普通のことになっているはずです。しかし、現代に生きる我々がそれについて語らなければ、その未来はより遠いものとなってしまうでしょう。
「ただ生きるのではなく、善く生きる」
ソクラテスが用いた文脈とは異なりますが、私はこの言葉の〈善〉の「善い」に、〈好ましい〉の「好い」を当てて、締めの言葉とさせていただきたいと思います。好ましくない人生を、無理に生きる必要はない。
ご清聴ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?