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E81:二度と味わえないカレーライス

実家から徒歩5分のところに、
「T」という小さなカレー屋さんがあった。

「カレーなんて家で食べるもの」
そんなふうに言っていた母が、自分から誘ってきた。

「ねぇ、カレー食べに行かない?」

初めてそのカレーに出会ったのは、約30年前。
それまで、取り立ててカレーライスが好きな人間ではなかったのに、その店の虜になってしまった。

「なんで、こんなに美味いんですか?」

今考えればとても妙な質問だったけど、
マスターはうれしそうに笑った。

母とマスターの奥さんが
おしゃべりに花を咲かせるなか、
黙々と仕込みをするマスターの背中を見るのが好きだった。


ある時、近所に別のカレー屋ができて、
その味に首を傾げた僕は、
あろうことか、Tのマスターに聞いてみた。

「そのカレー、なんだか変な味がするんですよ。マスターの作るカレーとは全く違うんだけど、なんでですかねー?」

相手は同業者である。若気の至り…。
何でも聞けばいいってものではない。
今思えば、…穴があったら入りたい。


でもその時、その話にマスターは興味を持った。

「変な味?」

「そう」


「おじさん、今度研究したいから、源太くん買ってきてきてくれない?」

カレー屋さんにカレーを持っていく…。
我ながら変なことしてるな、とは思った。

もう一方の店からすると、とても失礼な行為なのだが、ちょっとマスターがどんな反応をするか知りたくなった。

後日、マスターにカレーを持っていくと

マスターは匂いを嗅いで、少し口に含むと
中に入っているものを即、いくつかあげた。
そんなに瞬間的にわかるものなの?
僕はびっくりしたのを覚えている。

「プロなんだろうけど、方向性間違ってるよな」
寡黙なマスターがしみじみつぶやいた。

ここで、生意気な源太がマスターに言ったことを
今でもよく覚えている。

「でもマスター。僕は素人です。思うんですけど、プロだったら素人の客がまずいと思うカレーを作っちゃいけないんじゃないですか? そんな奴、プロじゃないんじゃないですか? だって、マスターの作るカレーは、素人の僕でもわかる。超一流です」

クソ生意気な男である。
当時まだ20歳。何者でもない男が、勝手なことを言ったものだ。横で母が慌てて止めた。

「イヤ、ほんと。すみません。この子ったら!」

すると、マスターは母に向かって言った。
「いや、お母さん。お母さんもこのカレー食べてみましたか?」

「はい、実は私もまずいと思いました…」
みんなで大笑いした。

【追記: 結局その「妙な味のカレー屋」は数ヶ月ともたずに閉店した】

帰省するたび、親子で「T」に行くのが楽しみになった。

ところが、僕が35歳を過ぎた頃
「T」は突然シャッターが下りたままになった。

どうしたんだろうね?
マスター、修行の旅にでも出てるのかなあ?

そんな話を親子でしていた矢先、
母が近所のスーパーで、「T」の奥さんに
ばったり出会った。

「まあ、久しぶり」
ひとしきりお互いの近況報告をした後、
母は思い切って尋ねた。
「お店、どうなさったんですか?」

母がそう尋ねると、
奥さんの顔がみるみる曇ったらしい。

「ごめんなさいね。主人が突然亡くなりまして…」



マスターしか、あのカレーは作れない。
そして、マスターは誰にもレシピを残さなかった。

母からその話を聞いたとき、
僕は、黙々と、カレー鍋の前に立っていた、
あのマスターの背中を思い出した。

小柄だったけど、とてもかっこいい背中だった。

生意気な僕が、「マスタは超一流です」と言った。あの当時のマスターと、今の僕はほぼ同じ年齢。
全然仕事は違うけれど、あんなにかっこいい背中をしているだろうか?
それこそ、素人の人たちは、僕の仕事を見てどう思うのだろうか?

「そうだよねー。素人のお客さんがおいしいって言ってくれなきゃ。この仕事は成り立たないよね」

あの時、マスターはそう言って、笑った。

あれから、何年やっても、「一流」の自信が持てない僕は思う。


もう一度、マスターのカレーライスが食べたい…。






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