漢字研究者の日常(漢字研究は言語学か)
日本語学(表記)の研究者を自称している岡墻(おかがき)です。
以下の文は「言語学な人々 Advent Calendar 2023」の12/6の記事として書きました。
また、今回の記事にあわせてnoteも登録してみました。なにぶん不慣れなのでうまく書けるか分かりませんが、よろしくお願いします。(公開予定日から遅れてしまいました。もうしわけありません。)
漢字研究者は言語学者か
研究者には専門とする領域・分野があります。上にも自己紹介したとおり、必要に迫られた時に岡墻は自分の専門を「日本語学(表記)」と表現することにしています。
奇しくも12/3の記事で宇都木昭先生が類似の内容をお書きになっていますが、研究者にとって自分の研究分野というものは重要なアイデンティティの一部です(だと思います)。
一応、長年日本語学会に所属し、滞納せずにせっせと学会費を納め、学会発表もしたことがあるので、基本的には間違ってはいないと思います。
「日本語学」は「言語学」の中の1分野なので(日本語学⊂言語学)、「日本語学者」は「言語学者」であることになり、ひいては岡墻も「言語学者」のはしくれということになります。(Q.E.D)
ただ、自分が言語学者かといわれれば、必ずしも素直に肯定できない気持ちがあるのが本音です。どちらかと言えば、「国語学」の方がまだ学生時代からなじみが深かったように感じますし、実のところ訓点語学会の方が長く所属しています。しかも、皆に内緒なのですが、日本言語学会には入会すらしていません。(ほな言語学者違うか)
もう少し私の専門を掘り下げて言うと、日本語の表記、特に近代以降の日本でどれだけの漢字が必要とされ、そこにはどういった字種が含まれていたのか、と基本漢字集合の解明することをライフワークとしています。現代ではいわゆる常用漢字にまつわる問題です。集合としてとらえた漢字を研究していることになりますが、この研究に言語学的な専門知識が必須となることはほとんどありません。
言語において、書記や表記がその構成要素となることは自明ですが、文字を持たない自然言語があるように、言語にとって必須の存在ではありません。こういった要素の研究が言語研究かどうか、いわゆるソシュールのランガージュに文字・表記まで含めて良いのか問題は、ソシュール自身によってすでに否定されていることです。
漢字研究、表記研究といったものは、あくまでも言語の外側にある、文化の研究なのだと思っています。かろうじて言語文化研究くらいには言えるかも知れません。
漢字学者になった日
入院(大学院進学)以来、いわゆる言語学プロパーとよばれる先生方を横目に、こんな悩みや葛藤を抱えながらほそぼそと日陰で活動してきたのですが、2018年にある大きな出来事がありました。それは日本漢字学会の設立です。
「漢字学」というのも定義づけることは非常に難しいとは思うのですが、それはさておき漢字に関する日本初の専門的な学会が誕生したのです。
岡墻はこの日本漢字学会の設立大会に参加し、発足と同時に入会しました。その後研究発表を行い会誌に論文も掲載されました。言語学者かどうかという問題が解決したわけではないのですが、これで少なくとも「漢字学者」は自称してもよいのかなと思えるようになりました。
ところが一方で、漢字というのはプロアマ問わず(学者・在野問わず)、非常にたくさんの日本人が興味をもっている分野です。漢字一字一字については、おそらく岡墻よりも漢検一級を合格している一般の方の方がよっぽど知識が深いのではないかと思います。
これに対して、研究者として幅広い時代の文献や辞書を読んでいると、現代の漢字とは異なった字体や和訓をもった漢字といくらでも出会うことになります。中世の古字書などに親しんで研究者として見識を深めれば深めるほど、いわゆる一般の方が信じて疑わない漢字の要素、つまり、正しい形や書き順や一般的な訓読みといったものには疎くなってしまうのです。
漢字のトメハネハライが多少おかしくても気にしませんし、何なら1点多くてもそんな字体もあったなと許容します。むしろどちらが現代の書き方だったのかすら忘れてしまいます。正しい書き順なんてものは、ほとんど意識しません。
一般の方は漢字に対する幻想をもっています。
学校の国語先生方が、「書き順を間違えるとその漢字に意味は無い」、「漢字は表意文字だから、書いた人の気持ちを表す」なんていう、怪しい文句を唱えている場面に何度も出会ったことがあります。漢字との冷静な相対し方があまり分かっていないと感じることが多々あります。漢字は言語情報を記録するツールであると同時に文化でもあるのです。身の回りに普遍的に偏在しているため、分かっていないことを分かっていないと知らないままに、なぜか簡単に理解できると思い込んで共存しています。
漢字についての質問
あまり益体のない個人的な内省ばかり書いてもどうかと思うので、最近あった日常的な漢字の話をします。
先日、大学の研究室に1本の電話がかかってきました。
事務の方から、テレビ番組を作っているという女性が漢字について質問があるといっているがつないでよいか、というものでした。こういう話は数年に1度くらいあります。大学の先生方でしたら、同じような経験をなさった方もあるかと思います。※
その日は時間に余裕があったので電話に出てみると、質問の内容は「鮪」という漢字についてで、「自分で調べた語源説が正しいかどうか教えてほしいとのこと」でした。女性が説明してくれた説はだいたい次のようなものです。
岡墻は5秒くらい考えて「調べてみないと絶対とは言えないが、おそらく間違っていると思う」と答え、その後にその根拠を説明しました。
電話の女性は、基本的にはこちらの説明をよく聞いてくださいましたが、こういった場合に求めているのは調査内容の裏付けですので、おそらくその番組では岡墻の存在や説明した内容が触れられることがないような気がします。どういった番組なのか聞き忘れてしまったのですが、もし近々「鮪の字源」についてテレビでやっていればぜひ岡墻にお知らせください。
「鮪」の字源説は、ネットで検索すると何件もヒットするくらいメジャーなもののようです。
さらに同じようなサイトで他の諸説も確認できます。
いわく、
「有」には「外側を囲う」という意味があり、マグロの円を描くように回遊する習性をあわらしている。
「有」の「ナ」は「持っている」、「月」は「にくづき」=「肉」という意味で、これらを合わせて「肉を持っている」、つまり身の部分が多いことを示す。
マグロは魚の中の魚であり、「ここに魚有り」という意味合いを持っている。
などの、大きく3説があるようでした。
しかし、これらのサイトの文言はどれも画一的で、どうみてもコピペです。全て根拠も論理が明瞭ではなく、出典を示しているものはほとんどありません。食べ物や水産関係のサイトが多く、その界隈でこういった非学術的な引用の仕方や言説が普及しているようです。
漢字関係のサイトでは「日本漢字能力検定協会」が作っている「カンカンタウン」というサイトで、「有は「外側を囲む」」説が見つかりました。「※解説については、諸説あります。」とありますが。
さて、この説の何が問題なのかという点について考えていきたいと思います。
………
とつらつら書いていたら全然収拾が付かなくなってしまいました。アドベントカレンダーといいながら、公開日から遅れまくってしまうのも顰蹙物ですので、とりあえず続きはまたの機会に書きたいと思います。
中途半端な内容で申し訳ありません。