『美の仕事 脳科学者、骨董と戯れる』を読む。

言わずと知れた脳科学者茂木健一郎が、骨董古美術雑誌『目の眼』で連載していた記事がまとまった本。門外漢である茂木が、編集長の白洲信哉と共に様々な骨董古美術店を訪れ、モノを鑑賞し、その世界へと魅惑されていく。

個人的に良かった場面をいくつか引いておく。
日本橋にある「壺中居」の井上さんと3人で話しているシーン。

“「これはいつぐらいのものなんですか?」
「18世紀後半……」と井上さん。「最盛期のものですね」と信哉が口を挟む。「これはブンインですね。」「ブンイン?」「分院というのは、李朝の、はっきりとした官窯を指すのです。」「固有名詞がわからないな。」「わからなくてもいいんです。」と、またもや信哉。「これらはもともと花活けとしてつくられたものですか?」「いや、むしろ、酒器でしょう。」「酒器?」「お酒といっても、向こうは清酒じゃなくて、濁ったどぶろくのようなものだから。寒いところですから、お酒が必要なんじゃないですか。」”(13頁)

いい年をした大人3人が、「これはなんだろう」と目の前の酒器を見ながら、あーでもないこーでもないと時に真剣に、時に和やかに会話している。その微熱的な興奮が、こちらにも伝わってくる。なんだか楽しそうだ。

また別の店「一元堂」の臼井さんとの3人の会話。

“「これは、何ですか?」
「刷毛目ですね。15世紀のものです。」
「李朝のものですか?」
「そうですね、朝鮮モノから出しましょうか。徳利と杯、全部出しましょう。」
臼井さんの手によって、次から次へと、魔法のように器が並べられていく。
信哉は、刷毛目にご熱心である。
「これは酒を入れるといいだろうなあ。」
「いいよお。たまらないよお。」
煽る臼井さんは罪な人である。”(42頁)

骨董や古美術というと、いかにも難しい顔をして、うんちくを披露し合うような、堅苦しくて敷居の高いイメージがあるかもしれない。

しかし本書では、単に知識を披露するだけでなく、子供のように弾む会話が随所に散りばめられている。モノを媒介にして、知識に裏打ちされた無邪気さの漂う大人な空間が作られる。

そしてその魅了され切っている大人たちも、不思議と魅力的に見えてくる。読み手のこちらも、ついつい仲間に入れてほしくなる。

思うに、あるコミュニティに人を集めるのは簡単で、単にこちらが活き活きと魅了されている姿を見せてしまえばいいのである。熱意は簡単に伝染する。

逆に言えば、魅了されている魅力的な人がいないから、誰も人が来なくなる。求人を出しても人が来ない職場は、人の顔が死んでいる。

巻末にある、茂木健一郎と白洲信哉の対談からも良かった箇所を二つ引いておこう。

“茂木 ああ、また思い出した。僕ね初恋は小学3年生の時なんですよ。ある雨の日に教室に一人でいて、それまでなんとも思ってなかったんだけど、ノグチクミコって女子が黄色い傘を差して校庭を一人で横切っていったんですね。それを見た瞬間に俺はこの子が好きだってわかったんです。そういうことなんだよね、骨董って。
白洲 それは傘が良かったの?
茂木 不思議なんだけど、あの瞬間に一点の曇りもなくそれがわかったというか……つまり信哉もそうだったわけだよね。この酒盃とであったとき一点の疑問もなくこれが好きだとわかったんだ。
白洲 そうだね。そうだけど骨董の困ったところは、買わなきゃいけないことなんだよ。純粋に好きになるんだけど、純粋なだけじゃ手に入らないという難しさはあるね。
茂木 今夜話して、なんとなく掴んできたよ。惚れちゃうってことなんだね。
白洲 そう、惚れて、しばらく一緒に時を過ごすことかなあ。”(216頁)

“白洲 この雑誌は、若者や初心者向けに古美術の魅力をアピールしたいというコンセプトだと思うけど、無理に引っぱってこようとしなくてもいいと思いますよ。
茂木 パーソナルな楽しみだもんね
白洲 来る人は来るんですよ。だってすごくおもしろい世界だから。茂木さんのように力があって努力している人が骨董に理解を持ってくれて、互いに影響を与えながら一緒にやっていくことはできるかもしれない。でも単に形から教えてくださいという人は、どうかな。「興味あります」っていう人の大半は、興味ないんだから。
茂木 まずは自分一人で、骨董屋さんのドアを開けてみることなんでしょうね。”(217頁)

骨董の世界というのは、その出自から値付けから曖昧なことが多く、根拠薄弱な品が多くある。また、時には「数百万の品は手放した。一方これはそこまでの値はつかなかったが、なぜか気に入っているので手元に置いて残してある」ということもある。

誰がなんと言おうと、惚れてしまったのだから仕方ない。惚れたのだから、思わず体が動いてしまう。

「若者を無理に引っぱってこなくていい」とまで語る白洲信哉は、それほどまでに骨董に惚れ込み、またその魅力の強度を信じている。その惚れっぷりに、また惚れる。

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