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答えのない問いをひたすらに考える

疑うことなく真っ直ぐに進める人が羨ましい。そんな強さに憧れるし、そんな人になりたかった。

自分が信じる「正しさ」を軸に持ち、誰に何と言われようともブレない強さ。

教師として憧れた先生たちは、みんなそういう強さを持っていたように思う。

いつかそんな教師になりたいと思っていたけれど、教職15年目を迎えた今もそうなれていない自分がいる。

人の話は姿勢を正して聞かなければいけないよ。
忘れ物をしたら授業の前に言いに来るんだよ。
真っ直ぐ手を挙げて前の人の頭に合わせて整列するんだよ。
提出物の締め切りは必ず守らなければならないよ。

大人になっても必要なことだし、躾として指導すべきことだと分かってはいる。

でも、昨日の夜眠れなくてだらんとしてしまうことだってあるよね。
忘れたくて忘れたわけじゃないし、大事なのは次忘れないことだよね。
人に合わせることよりも、自分らしさの方が大切な気がする。
締切を守れなかった自分を十分自分で責めているよね。

そんなことも同時に考えてしまう。絶対に正しいことなんてない、という言葉に甘えているだけかもしれないけれど、「強制」することに対する恐怖というか躊躇いが抜けない。

ADHDの子供にとって、じっと机に向かって座っている時間はどれくらい苦痛なのだろうと思う。しかし、学級全体の規律を考えると、その子を指導しないわけにもいかない。でも、そうやって小学校6年間、中学校3年間、ずっと怒られ続けた子供は、どういう大人に育つんだろうと思ってしまう。「人の話を姿勢を正して聞ける大人」になれたとして、その子の人生にとってそれはどれほど価値があるものなのだろうか。もしかしたら、姿勢を正して人の話を聞けることより、自分のことを好きな自分でいられる自信を身に付けさせた方が価値があることなのではないか。

そんなことも考えてしまう。

考えても答えは出ない。バランスが大事と言って仕舞えばそうなのだろう。
どこまでが躾で、どこまで指導すべきか。
難しい。

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