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異国の地を旅するように:ボルヘスほか『ラテンアメリカ怪談集』

「これまでに読んだ小説で、好きな小説はなんですか?」と尋ねられたら、その中に私はおそらくガルシア・マルケスの「百年の孤独」とボリス・ヴィアンの「日々の泡」を入れるだろう。

どちらも話の内容はもうすっかり忘れてしまったが、読んだときに、とてもとても面白いと感じたのだ。その意味で私は幻想的な話が嫌いではない。

「怖い話はどう?」と尋ねられたら、「怖い話は好きじゃない」と答えだろう。でも、怪異談で良いというのであれば、三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」と柳田国男の「遠野物語」を入れると思う。


遠野物語の序文にこんな一節がある。

日は傾きて風吹き酔ひて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑ひ児は走れどもなほ旅愁を奈何ともするあたはざりき。盂蘭盆に新しき仏ある家は、紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上において東西を指点するに、この旗十数か所あり。村人の永住の地を去らんとする者と、かりそめに入り込みたる旅人と、またかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽くしたり。遠野郷には八か所の観音堂あり。一木をもちて作りしなり。この日報賽の徒多く、岡の上に燈火見え伏鉦の音聞こえたり。道ちがへの叢の中には雨風祭りの藁人形あり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥してありたり。以上は自分が遠野郷にて得たる印象なり。

柳田國男『遠野物語』序文

旅人、異邦人として聞く不可思議な話。馬の首に取りすがる娘。鳥になってしまった姉妹。しかし、それはいずれも何らかの真実のような気がする。そんな柳田国男の感慨が伝わってくる。

昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、つひに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のをらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父はこれをにくみて斧をもちて後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。

柳田國男『遠野物語』

郭公と時鳥とは昔有りし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまはりの堅き所を自ら食ひ、中の軟かなる所を妹に与へたりしを、妹は姉の食ふ分はいつさう旨かるべしと想ひて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅い所といふことなり。妹さてはよき所をのみおのれにくれしなりけりと思ひ、悔恨に堪へず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりといふ。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。

柳田國男『遠野物語』

遠い異国の地を旅するように、怪異談という形をとった自分とは違う地域の感性にふれることもまた旅なのかもしれない。

不思議な話を読むとき、私もその場に立っている。起きたことを、見えない傍観者として、異邦人として眺める。

異邦人だから、細かいことはよくわからない。なぜこの人は笑っているのか、なぜこの人は怒っているのか、泣いているのか。なぜそれはそこにあるのか。なぜ彼/彼女はそう思ったのか、そう感じたのか、わからない。

考えてみれば、そもそも目の前にいる人が何を考えているのかさえ、本当のところは私たちにはわからないのだ。

わかった気持ちになっているだけ。私がそう感じただけ。そして私の感じたことが実際とあっているかどうかにかかわらず物語は進行していく。正しさなど存在せず、正しいと感じたことが存在する。

三遊亭圓朝も柳田国男も起きたことを淡々と記述していく。なぜ萩原新三郎とお露が恋に落ちたのか。因縁話のようでありながら、その実はわからない。二人の出会いとほんの一瞬での恋への落ち方にこそ、牡丹灯籠の怪異談としての真骨頂があるのかもしれない。


私は不思議な話を読むときは、その風景を愉しむように読んでいく。違う国の違う街を訪れたとき、街並みを眺めながら歩くように。

なぜ屋根がそんな形をしているのか、なぜ壁の色がそんな風なのか。なぜ屋根の上にそんな飾りが乗っているのか。それらには、もしかすると意味があるのかもしれないし、その意味がわかればさらに面白いのかもしれない。しかし、そのような知識に触れることは、また少し後にとっておき、とりあえず街を歩く。ドキドキするような、そして少し不安な気持ちを楽しむ。

わからないこと、知らないことは面白いことだと思う。


ずいぶんと以前のこと、妻ドロシーとナイヤガラの滝に行った。彼女はなぜだかはわからないが、滝が好きだ。

トロントで車を借りてナイヤガラまでドライブで移動した。彼女はナイヤガラの滝をすごく楽しみにしていて、「ナイヤガラにはサイエンス・トンネルというのがあって滝の裏側から滝が眺められるの」とか、いろいろなことを話した。

私はといえば、ナイヤガラの滝にまったく期待をしていなかった。それは五大湖からの水が常に流れる大きな滝。それは昔のアメリカ人が新婚旅行で訪れる場所。それはマリリン・モンローが映画「ナイヤガラ」で泊まっていたロッジがたっていた場所。花火大会でときどき「ナイアガラ」という出し物があるけれど、なんだかぱっとしないこと。

ところが、実際には・・・。私は本当にびっくりしてしまった。そして、今もときどき思います。ああ、ナイヤガラのあの滝は、いまも轟音をたて、あの分厚い壁として流れ落ちているのかと。

一方のドロシーはかなりがっかりしていた。楽しみにしていたサイエンス・トンネルが長い打ちっぱなしのコンクリートのトンネルで、彼女が期待していたトンネルとはずいぶんと異なっていたようだった。

だから、わからないこと、知らないことは、それはそれで私には良いことなのだ。


『ラテンアメリカ怪談集』は確かによくわからない話が多かったように思u.
確かに「もう少し注釈があったらわかりやすかったかも」とも思う。

たとえば「トラクトカツィネ」という題の話。最後の一行は「シャルロッテ、メキシコ皇妃」で終わる。突然出てくるので「誰、それ?」といいたくなる。落語の落ちの分類でいえば「考え落ち」か「見立て落ち」のように思えるが、シャルロッテが誰だかわからないので、モヤモヤっとする。

「ジャカランダ」という話も、登場する女性が生きているのか死んでいるのか、違う人物なのか同一人物なのか、主人公の夢なのか勘違いなのか思い込みなのかわからず、モヤモヤとする。

でも、わからないことはいけないことなのだろうか?

わかった方がより楽しめるのはその通りかもしれない。なるほど「トラクトカツィネ」の最後に書かれたシャルロッテがそういう背景のある人なのかと知っていれば、物語の深みはぐっと深くなるだろう。その短編のそれぞれの物語の構造や作者の意図、構成の意味、時代背景などが理解できればさらにワクワクできると思う。

しかし、少なくとも私には、それは「今」は必要がない。

これは私が初めて訪れた町。雰囲気はあるけれどまだ溶け込めない異邦。でも、それはあるとき、別の何かきっかけでわかるかもしれない。そして、「そうか、あれはそういうことだったのか。。。」とわかる。 それでよいと思っているのだ。


私が好きだと言ったガルシア・マルケスの「百年の孤独」だが、私が読んだ手元の本には注釈がない。最後に少し長めのあとがきを訳者の鼓氏は書いているが、それは本当にざっくりとした背景だ。

そして、ほとんど内容を忘れてしまったその物語が、あとがきの有無にかかわらず、私にまったく異質な新しい不可思議な世界を見せてくれたことだけが記憶されている。

おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも

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