参加したことに意義がある、たぶん。:カント『純粋理性批判』
もうすぐパリ・オリンピックが始まる。だから、カント『純粋理性批判』の読書会(全6回:3月10日~8月18日)も、参加することに意義があるんだ。
熊野純彦訳『純粋理性批判』をさきほど8月を待たずに読了した。正直、読み終えることができて嬉しい。中身の理解度は大したことはなくてもだ。だって800ページを超える分量のイマヌエル(カント)くんの熱い語りを、とりあえずにせよ、読み終えたんだもの。
教科書的には、『純粋理性批判』は、「理性の働きとその限界を明確にし、近代哲学の源泉となったカントの主著」ということになる。少なくともAmazonの商品の説明にはそう書いてある。
こちらは、amazonの「商品に関する説明」に書いてあったこと。え、そんなこと、どこに書いてあったっけ? でも、恰好いい。
索引を使ってみたけれど見つけられない。「超越論的方法論」の「純粋理性の訓練」のところか? それとも序文? 電子本だったら検索できたのにとは思う。
きっとどこかに書いてあったのだろう。へへへ、《読了した私》は余裕の笑みで「ああ、そんなようなことは確かに書いてあったね」と言ってよいのだと思いたい。だって、読んでない本について堂々と語っているんじゃないもの。読んだもの。少なくとも字は全部、見たもの。だから、いいのさ。
読み終えて思うことは、「私はイマヌエル(カント)くんが好きだ」ということだ。
『純粋理性批判』は、彼(イマヌエル(カント)くん)と新宿のルノアールで話をしているようなつもりで読んだ。まじめな人、ごめんさい。
ともかく、(友人である)彼は普段からいろいろ考えているみたいだし、言っていることはときに早口だったり、繰り返しが多かったり、いろいろな単語の定義の表現が微妙で違いがその差がわからなかったりして、「なんだか自分だけわかってる?」という気持ちになるときもあるけれど、それでも彼が何かを言いたいということだけは伝わってくる。
「そっかぁ」「そうだね」「そう思うんだ」「きっとそうだよ」と適当に相槌をうちながら、心の中では「うーん、わからない・・・」と表情にださずに思う。でも、ときどき「ああ、そういうことが言いたかったのか」という気持ちにもなる。そんな感じで、ルノアールで何時間も私は彼の話を聞いていたような気がする。
ときどき、彼はオタク的にも、まぁ、ちょっと厨二病的に、むちゃくちゃ恰好いいことをいう。たとえば第一版序文の冒頭。
最初、聞いたときはよくわからなかった。「え~???」と思ったのは彼には内緒だ。とりあえず「へ~」と私は言ったと思う。
でも、彼が言いたかったことを一通り聞いた今は、「なるほど、そういうことを言いたかったんだぁ~」と微笑み返すことができる気がする。
序文だけじゃない。あちこちで、いったん、彼の口調や論旨の展開を受け入れてしまえば、すごくカッコいいキーフレーズを彼はいう。
わたしが「そうそう」と思えるのはときどきだけど、私が思うに彼はまじめに真剣に語っているのだ。すくなくとも私には彼の一生懸命さに共感する。
本当のことを言えば、カント『純粋理性批判』の読書会には参加しないつもりだった。自分の中で彼のことを知りたいという優先順位はそれほど高くなかったし、読まずに人生をおえても、それはそれでいいと思っていた。
でも、いまはちょっと思う。イマヌエル(カント)くんに会えてよかったかもしれないと。