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一度は読んでほしいSF:ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』

「SFって読んだことがないんだけれど何がいいと思う?」 SF好きを自認する人ならかならず一度は聞かれる質問だ。うーん、無難なところで、その人が本好きなら、『クララとお日さま』『母なる夜』『フランケンシュタイン』 etc.

無難というラインが難しい。質問した人は凝ったものを求めていないはずだから。たぶん、質問は世間話の一部なのだ。過剰に《暑く》語ったり、王道だったら・・・と考えたセレクションをしてはいけないんだ。先の3つは、本好きなら許容範囲だと思う。SFとは何かを考えてもらうきっかけになるかもしれないし。

でも、1番は、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』かなぁ。

中篇版と長篇版とがあって、私は高校生のときに中篇版の方を読んで衝撃を受けた。普通に手に入りやすいのは長篇版だと思う。

私が読んだのは、『SFマガジン』のバックナンバーでだったと思う。学校をサボって近くの図書館や、授業中に教科書の陰に隠して、SFばかりを読んでいた頃だ。もしかすると『世界SF全集』だったかもしれない。

その後、単行本で長篇版の方が出たのでそちらも読んだ。生意気な若者だったので「中篇版の方がいいね」なんて思ったけれど、いま読めば案外、長篇の方がいいかもしれない。

中篇の方は『心の鏡』という日本版オリジナル作品集で読めるけれど、その序文にダニエル・キースはこんな風に書いているからだ。

歳月を重ねるうちに、主人公チャーリイがときおり私の頭に浮かんだ。彼についてもっと知りたい、両親について、彼の幼児時代についてもっと知りたいと思うようになった。彼を知るために、彼の意識、彼の精神のなかに入りこんでみたいと思った。そこで私は彼について書きつづけたのである。そうするうちに、あの短い小説が長篇小説になってしまった。

若い頃の私は、王道的なSF的なギミックの、扱いの上手さとわかりやすさの点で、長篇より中篇を評価したのだろうと思う。でも、きっと今読めば、長篇を読んだときに感じたディテールに、より価値を見いだす自分がいるような気がする。

高校生の頃の私は、そして今もその傾向は決して消えていないが、バリバリの《知性主義者》だった。高校生の私は『アルジャーノンに花束を』に、そういった考えの未熟さの足下を掬われた気がした。別解を示されたように思ったのだ。

しかし、それでも今もどこか私は《知性主義者》だ。だから、知り合いの佐藤雅彦さんから、こんなブログの一節が送られてくると、相変わらず自分の未熟さを思い知らされてしまう。

doingとbeingの世界
 私は認知症になり価値観が大きく変わった、認知症になる前は、世の中のためになる、できることが、価値があると言うdoingの世界で生きてきた。できることわ素晴らしい、何もできない人は、価値のない人間であると考えていた。しかし、自分が認知症になりできないことが増えて、doingの価値観では、自分は無価値の存在であると思い知らされて、絶望に陥った。  私たちは、神様が作られた最高傑作の創造物であり、何ができなくとも自分は価値がある、beingの世界んがあると考えるようになった。doingの価値観から、beingの価値観に価値観の見直しをしたら、生きるのが楽しくなった。私達は 小さいころから、できることが多くあることが素晴らしいことです、人より能力優れていることが大切であると、知らず知らずのうちに刷り込まれてきた。doingの価値観で生きていると、歳を取ったり、障害を持ったりすると、できないことが多くなり、自他ともに社会の底辺に押しやられる、beingの価値観を持てば、年をとっても、障害を持ってもありのままの自分が受け入れられ、楽に生きれることを知った。生き生きアートで作品を作ることは、beingの世界で、認知症の私でも心地よい居場所になった。

『アルジャーノンに花束を』のどの部分に強い印象を受けるかは人によってかなり違うかもしれない。別解があるのかどうかもわからない。

でも、「SFって読んだことがないんだけれど何がいいと思う?」と尋ねられたら、『アルジャーノンに花束を』はその大切な候補だ。

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